ダイコンオロシ@お絵描き

三重県の郷土史を中心に、時々お絵描き

イラスト)宇喜多氏(富田信高の妻)

2024年9月18日から始めた「関ヶ原の戦い@安濃津城の戦い」が思ったより長くなってきました。終盤間近ですが、ここでイラストを1回挟みます。

diconoroshi.hatenablog.com

イラストは、安濃津城の城主・富田信高の妻「宇喜多氏」です。安濃津城が西軍に攻められた際、槍を振るって富田信高の危機を救ったと伝わる女傑です。*1

富田信高の妻(宇喜多氏/浮田氏)

宇喜多氏の記録~「武功雑記」

富田信高の妻、宇喜多氏(浮田氏)の装いについて、「津市史」が引く「武功雑記」に詳しく記されています。

「若武者緋縅の具足に中二段黒革にて縅したるに半月打つたる兜の緒をしめ、片鎌の手槍をおつ取り」

「年比は廿四五ならん」

「あの若武者は眉を化粧し歯黒をつけ爪紅をさし候、必定女にて候やらん」

武功雑記(「津市史 上」の引用・58頁~)

宇喜多氏(富田信高の妻)を描いた画は巴御前のように兜を被らず長い髪をたらした、明らかに(当時の)女性とわかるものが多いので、あえて兜を被り、上記「武功雑記」の特徴で女性であると分かる程度の画にしたつもりです。

地元地誌「勢陽雑記」には記されていない

一方、江戸前期に成立した伊勢国の地誌「勢陽雑記」には、富田・分部の安濃津城籠城戦には触れられていますが、宇喜多氏のような女武者の活躍は述べられていません。

富田信高の妻の奮戦を直に見たのは、信高本人のほか、その近習たちであったでしょう。富田信高は慶長13(1608)年、藤堂高虎(伊予今治宇和島)との入れ替わりで四国の宇和島に移封されます。信高とその近習らは宇和島に移り、「勢陽雑記」成立時点の津には、信高の妻の戦働きを目撃した人や記録は少なく、地元伝承としては伝わっていなかったのではないでしょうか。

「勢陽雑記」よりやや時代が下る元禄15(1702)年、新井白石が全国の大名家の事績を記した「藩翰譜(はんかんふ)」にも、「富田氏」の項はあるものの、富田信高の妻の奮戦は記されていません。「知信*2の妻は宇喜多安心入道が娘、…」と宇喜多氏のことは書かれていますが、津城攻防戦での活躍に言及はありません。宇和島転封後の富田氏改易の原因となった騒動にふれるのみです。当時、大名家としての富田氏はすでになく、新井白石江戸屋敷などで聞き取った内容は藤堂藩の「勢陽雑記」によるものだたっと思われます。

「武功雑記」など西日本に記録が残った

一方、元禄9 (1696)年頃成立の「武功雑記」には、上記のように、安濃津城攻防戦における宇喜多氏(富田信高の妻)の活躍が詳細に伝えられています。

「武功雑記」は江戸前期、1663年から1696年の間、九州・平戸藩主・松浦鎮信が各所から聞き取った武功談を書き留めた書物です。当時の平戸藩は大阪浪人や改易となった加藤・福島両家の浪人を多数召し抱えていたということで、宇和島に転封となった富田信高や、攻め手の長束、毛利、小早川などの西軍大名、富田信高室の兄弟坂崎直家や実家の宇喜多家など、減封・改易となった関係者も、直接・間接に松浦鎮信の聞き取りに関わっていた可能性があります。地理的にも平戸(現・長崎県)と近い西日本の浪人たちが語り手だったと推測されます。

関ヶ原ののち、津藩の実質的な開祖となった藤堂高虎・高次の下、新たな国作りが進む伊勢国での伝承は薄く、関ヶ原の勝者であった富田・小早川・加藤・福島らを含め、西日本の人々に手厚く伝わっていたのではないか。

「2つ前に仕えた富田の殿様は運なく改易されちまったけども、その嫁さんがすごかったんだよ、知ってるかい?」

「俺の爺さんは腕が立ったんだよ。その爺さんがさ、手傷を負わされたんだよ。天女のような美しさにふと見とれて、つい不覚をとったんだね。」

ムネアツではあります。

同じく宇喜多氏の戦いが記録されている「常山紀談」も岡山藩儒学者の著書で、こちらも西日本です。*3

富田信高の妻(背景なし)

参考文献

「津市史 上」津市(1959)

桑名忠親「大名と御伽衆」青磁社(1942)

山中為綱「勢陽雑記」(1656):津の郡奉行が編纂した旧伊勢国の地誌

松浦鎮信「武功雑記」(1696 頃)(「津市史」が「武功雑記」として引用した部分)

新井白石「藩翰譜」(1702)

湯浅常山「常山紀談」(1770)(元文4(1739)年頃原型成立とも)

※江戸時代以前の書物は「国立国会図書館デジタルコレクション」内の明治期以降の写本によります。

 

*1:「女」傑という語句は令和のご時世的に問題があるかもしれませんが、男中心の江戸・明治において、なおもその勇名が伝えられた宇喜多氏を讃えるため女傑という呼称を使います。

*2:富田和信(富田一白)は信高の父。富田氏が改易されており、混同して伝わっていたのかもしれません。

*3:「津市史」などで宇喜多氏の活躍は「武功雑記」からの引用として原文を掲載していますが、国立国会図書館デジタルコレクションで検索すると、「津市史」の引用する原文は「石田軍記」(1698年以前に成立か)の記述である可能性があります。