前回のあらすじ
慶長5(1600)年8月24日、毛利勢を中心とする西軍が安濃津城への攻撃を開始。城を出て城下町で戦っていた兵が、城の東側にまわった西軍(宍戸元続・鍋島勝茂・龍造寺高房)の攻勢を支えきれず城内に撤退します。その際、城の北にあった西来寺を西軍に拠点化されることを避けるため火を放ちますが、その火は市街地を焼き尽くします。
城の北にあがる黒煙に、南の守備兵など城内は動揺し、西軍は勢いづきます。
当時の安濃津城
ここで、「津市史 第1巻」の記載から当時の安濃津城の縄張りをみてみましょう。
・東に大手門があった(分部町口)。
・北に地頭領町口、西来寺口(今の京口)の2門があった。
・西と南には門はなかった。
・本丸の東に二の丸、三の丸、南に局丸。橋で連絡
・内堀・外堀があった。
津市役所サイトの「津城かわら版」の第1「津城の起源」で、江戸時代に書かれた「天正期安濃津城図」が見られます。一部隠れている部分がありますが、およそ上記のような縄張りであったことが分かります(津市史の記述はこの図面を基礎にしたと思われます)
激しい籠城戦・分部光嘉の奮戦
安濃津城の南を守っていた兵は、背後の北側で火の手が上がるのを見て、「敵が北から城内に入った」と思い、動揺します。実際、宍戸らの兵は安濃津城の外郭(二の丸、三の丸のいずれかまたはその両方)を破っていました。
南から攻めていた長束正家・安国寺恵瓊は黒煙を見て勢いづき、攻勢を強めます。当時の安濃津城は、南向きには門がありませんが、堀を渡って攻めたり、東向きの南の門*1を攻めたりしたのでしょう。
籠城側は、伊勢上野城主で富田信高と共に安濃津城に入った分部光嘉が奮戦します。
「光嘉迎撃凡そ三たひ両軍死傷頗る多し」(「日本戦史 関原役」)
「政嘉(光嘉)手の物引具して、打て出て、散々に戦ひ、自らも槍取て、敵を討つこと、数を知らず」(新井白石「藩翰譜」)
「分部左京亮は管槍に長する人なりしか手の者と共に力戦して敵兵数輩突伏す中にも毛利家の魁者宍戸備前か左の脇腹をつく左京亮も股に疵を被りければ郎等に引かけらっれて観音堂まで引退く」(「東遷基業」)
分部光嘉は自身も槍をふるって戦い、宍戸元続(宍戸備前守)の左脇腹を突いて負傷させたと伝わります。実際に一騎打ちがあったかどうかはともかく、東西双方の将が負傷する激しい戦いが家伝として残ったのでしょう。しかし、奮戦していた光嘉自身も負傷し、引き下がるしかありませんでした。
こちらでも、外郭が西軍に落とされます。*2
城の西からは西軍の大将・毛利秀元が攻めましたが、城兵に撃退される手勢に対し「退くものは斬れ」と叱咤するほど激しい抵抗にあいました。
川を挟んだ城の北からは塔世山から西軍の砲撃が続き、城内の櫓などが粉砕されます。現在の四天王寺(塔世山)門前から津城跡までは歩いて1km少々。直線距離だと800mくらい。当時の大砲の射程については、ウェブで400mから1600mなどと幅がありますが、塔世山(高台)に大砲を据えれば、十分に届いたのではないでしょうか。

城内に忍び込んだ西軍兵
江戸時代初期の伊勢国の地誌「勢陽雑記」には、安濃津城の外郭が落ちる中、城内に紛れ込んだ西軍兵と思しき者が城兵に討たれる様子が次のように記されています。
・紫母衣を付けた武者が城内を徘徊していた。最初は味方と思われたが、やがて城兵に怪しまれ、大勢が取り巻いて天守の近くの梨の木の下で討取った。
・この様子を見ていた武者が一人、厩の屋根に上がって逃げようとしたところを、武田左馬之助の家来、外山五郎八という者が追いかけ屋根にかけ上がって組み付き、屋根から落ちて五郎八が組み伏して討取った。
・城兵は、小早川秀秋*3と富田信高の馬印が似ていることに引っ掛けて、こいつら、殿(富田信高)が城に入った時に、殿を小早川秀秋と間違えて入ってきやがったぜ!と笑い飛ばした。
最初に武者が討たれた場所が「梨の木の下」。食料・水分補給になる梨を城内に植えていたというのは、戦国期に整備された安濃津城の備えを想像させます。
(現在でも、津城の南、久居(ひさい・旧久居市)周辺は梨の名産地です。)
馬印ギャグで溜飲を下げた籠城兵。避難した城下の人々や籠城兵の家族とともに、狭い安濃津城本丸の中で(攻城戦とは別に)大騒ぎになった様子が想像されます。*4侵入した敵兵を討ち取って、大軍に囲まれた不安を拭い去るように、大いに気勢を挙げたことでしょう。
しかし彼らが籠る安濃津城本丸は、西軍が充満する安濃津城外郭に囲まれていました。
城兵の奮戦と西軍の被害
1,700 対 30,000、絶望的な籠城戦を、城下の村民・地侍・松坂からの応援を含めた籠城兵は必死の抵抗を見せ、攻城側・西軍に大きな損害を与えています。
吉川広家署名の文書*5に、「8月24日、安濃津城攻めの2度の合戦により死傷した者」として、戦死75名、負傷227名の名が列記されています。吉川広家が率いた毛利勢の死傷者数なので、その他西軍諸将の兵は含まれていません。「吉川勘左衛門尉(経實)槍2か所、鉄砲2か所、矢1か所」をはじめとして、複数の傷を負った毛利兵が多く記録されています。
毛利勢の中では、豊臣秀吉の中国攻めで、備中高松城の守将として切腹した清水宗治の長男・清水宗之も、24日の城攻めで戦功を立てたものの、その夜に討死しました。*6
8月23日の綾井・斎田隊襲撃のように猛々しい戦国時代の気風が残る安濃津城兵・市民は、城の外郭を落とされ本丸に追い詰められながらも、松坂からの増援とともに、死力を尽くして戦いました。
しかし、やがて安濃津城にも最後の時がおとずれます。
分部光嘉が負傷して退き、二の丸・三の丸がすべて落とされ、富田信高も最期を覚悟します。
次回、富田信高の妻、宇喜多氏が獅子奮迅の戦働きをして、安濃津城攻防戦の終焉を飾ります。
参考文献等
「津市史 上」津市(1959)
山中為綱「勢陽雑記」(1656)
サイト:国立国会図書館デジタルコレクション
*2:外郭が複数回落とされていますが、先に引いた「津城かわら版」の第1「津城の起源」に掲載されている図面では、本丸から見て二の丸・三の丸が二手に分かれて城下町に門を設けています。2手の外郭があり、それぞれが落とされたようです。
*3:安濃津城攻防には参加してないが、攻城側の毛利・吉川などと関連して寄せ手に小早川勢もあると推測したか、ただの冗談か
*4:討ちとられた2人の西軍兵も西軍の視点からは勇気ある英雄です。もし情報あるよという方が見えたら、情報提供願います。
*6:清水宗之 永禄五壬戌年備中高松別廓二生ル 慶長五庚子年八月廿四日宗之元政公元倶公一手ヲ得 御押備ノ供奉トシテ勢州安濃津ノ城ヲ攻メ戦功アリ 然シテ即夜討死ス 行年三十九(近世防長諸家系図綜覧)