当初想定していたよりかなり長くなってしまいましたが、これでラストにします。
前回まで
慶長5(1600)年8月、関ヶ原の戦いの前月。東軍についた富田信高・分部光嘉ら1700人の兵と城下の避難民が籠る安濃津城(現・三重県津市)に、毛利勢を中心とする西軍3万が迫ります。
8月23日、籠城側は、やたらとアグレッシブな綾井・斎田の鉄砲隊と、スナイパー弓削忠左衛門らの活躍で、西軍(大坂方)の先鋒に損害を与えます。
8月24日、城は西、南、東の3方向から攻め立てられ、城下の各所で火の手が上がります。槍を振るって奮戦していた分部光嘉も負傷。城の櫓も北からの砲撃で破壊され、城の外郭が陥落。籠城兵や避難民は本丸に追い詰められます。
富田信高の妻・登場
(以下は「津市史」が引く「武功雑記」の記載によります。)*1

富田信高自身も本丸大手の外、城の二の丸を占拠した西軍兵と戦っていました。城方は佐々孫市、安塚平八郎ら勇士9人が討取られ、富田信高も家臣・本多志摩に本丸に戻って自害するよう勧められるほどに追い詰められます。分部光嘉の配下・分部右馬介が援護にきて、ようやく敵を食い止めます。
そこに、本丸大手門内から鮮やかな鎧を着た1人の若武者があらわれ、槍を振るって西軍兵5、6人に傷を負わせたかと思うと、さらに敵に向かって、前に前に突っ込んでいきます。戦い初日の綾井・斎田隊といい、いったん前に進むとブレーキが効かなくなるのが安濃津城兵の特徴なのでしょうか?
富田信高はその若武者に見覚えがありません。
富田信高「分部光嘉さんとこの小姓?」
分部右馬介「いや、あんな子はいませんよ」「ばっちりメイクしてます。きっと女性でしょう。」
富田信高も手勢を率いて西軍を追い散らしたところ、若武者が信高のもとによってきて言うには、
若武者「よかった、まだ討たれてなかったのですね。殿が討死されたと聞いて、いっしょに死のうと思い討って出ました。」
はい、彼女こそが富田信高の妻・宇喜多氏だったのです。
富田信高の妻・宇喜多氏は備前(現・岡山県)の戦国大名、宇喜多氏の一族でした。宇喜多直家の弟・忠家(宇喜多安心入道)の娘で、五大老の宇喜多秀家の従姉妹に当たります。彼女の装いなどは前回のイラスト記事をご覧ください。
富田信高とその妻は無事本丸に引き返します。
しかし、安濃津城の状況は刻々と悪くなっていきます。
現在の津城跡の本丸、藤堂高虎が増築して少し広くなったということですが、決して広いとは言えません。現在より狭かった安濃津城本丸には城兵のほか、避難民が密集していました。西軍の放つ砲弾や矢が城内に降り注ぎ、老人・子ども・女性など非戦闘員にも被害が続出して阿鼻叫喚の地獄絵図であったと言います(「日本戦史 関原役」)。
城兵の死傷約600人。避難民の被害も多かったでしょう。
富田信高の降伏・安濃津城開城
一方、上杉征伐から引き返した東軍の福島正則・浅野幸長らが西軍の拠点・岐阜城を攻め、危急の情報が安濃津城を包囲する西軍にも入ります。24日には岐阜城落城の報が入ったかもしれません。*2
翌8月25日、西軍が交渉役に帯同していたであろう僧侶・高野山の木食上人などが安濃津城に降伏勧告の使者として出向きます。城兵や避難民に被害が続出し、既に限界を超えていた富田信高はこれを受け入れます。
降伏した富田信高と分部光嘉は高田本山専修寺(現・津市一身田)で出家し、紀伊の高野山で謹慎します。安濃津城は伊勢に領国を有する山崎定勝・松浦久信・蒔田広定や豊臣家臣の三宅源十郎らの管理下におかれました。
西軍の一部は南の松坂城に向かいます。到底かなわないとみた松坂城城主・古田重勝は和議を乞いました。これで伊勢国の中心部はほぼ西軍の手に落ちます。
慶長5(1600)年9月上旬、安濃津城を攻めていた毛利秀元・吉川広家・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは関ヶ原の南、南宮山周辺に着陣します。
津から関ヶ原までの道は、菰野・いなべを経て、現在の国道365号線で南雲大社の南・南宮山(現・岐阜県垂井町)に出ます。関ヶ原の戦いの布陣図を見て、なんで毛利や長宗我部があんなところにいるんだろう?と思ったことがありますが、なるほど、伊勢から北上したからなのですね。
慶長5年9月15日、関ヶ原の戦いの本戦は、東軍の勝利に終わります。
安濃津城に詰めていた西軍は早々に逃げ去り、その後には焼け落ちた安濃津の町が残されました。
富田信高は戦功が認められ2万石加増。計7万石の領主となり、安濃津の城や町の復興に努めますが、慶長13(1608)年、伊予・宇和島に転封されます。
富田信高と入れ替わりで、伊予から藤堂高虎が移封、安濃津の城主となり、江戸時代を通じて続く藤堂藩の基礎が築かれることになります。
以上、長くなりましたが、関ヶ原の戦い@安濃津城、終了します。
また関係資料など見つけたら、追加で記事を書くかもしれません。ありがとうございました。

参考文献等
「津市史 上」津市(1959)
サイト:高田本山専修寺