ダイコンオロシ@お絵描き

三重県の郷土史を中心に、時々お絵描き

関ヶ原の戦い@安濃津城5 西軍の伊勢侵攻(慶長5年8月初旬)

関ヶ原の戦い三重県(津・安濃津)、5回目です。

前回までのあらすじ

慶長5年、関ヶ原の戦いの直前。家康の命を受けて安濃津城に入った富田信高。伊勢上野城の分部光嘉が合流、松坂城からも増援、地侍の参加などもあり、計1,700名の兵となりました。周辺の住民も避難民として城に入ってきます。

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富田信高・分部光嘉が安濃津城に入るより少し前には、毛利勢を中心とする西軍が鈴鹿峠を越えて伊勢国に入り、安濃津城をうかがう地点にまで進出しつつありました。

西軍の部隊

慶長5年8月1日、家康の家臣・鳥居元忠が籠城する伏見城が落城します。伏見城攻めの中心となった毛利勢など、西軍の一部が、近江国瀬田を経て伊勢侵攻を試みます。将のメンツは次のとおり。

長束正家近江国水口(現・滋賀県甲賀市水口町)の領主です。伏見城をスタート地点として伊勢・安濃津に進軍する際の案内役として最適ですし、居城(水口岡山城)も伊勢侵攻の拠点となったでしょう。

伊勢侵攻当初の西軍の兵数は不明ですが、毛利家の主将が指揮しており、それなりの大部隊であったと想像できます。城主が上杉征伐に従軍していて手薄な城を威圧し、開場させることが主な目的だったのでしょう。

伏見から安濃津へのルート

水口は東海道沿いの交通の要所で、現在も国道1号線が通っています。

江戸期に整備された宿場・東海道五十三次を、京都側から見ると、

京都大津草津石部水口土山鈴鹿峠坂下ー…

と宿場町が続きます。土山までは近江(滋賀県)、坂下からが伊勢(三重県)です。

余談ですが、土山に田村神社、坂下に片山神社があり、鈴鹿峠を挟んで滋賀・三重の双方で田村語り・田村麻呂信仰が盛んでした。(本当に余談)

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現在の一般道でも、国道1号線を関(亀山市関町)まで東進し、関で県道10号線(津・関線、伊勢別街道)を通り、椋本を経由して、北から津の町に至ります。

慶長5年8月5日、西軍は鈴鹿峠を越え、毛利秀元吉川広家が関(現・亀山市関町)に布陣し、長束正家安国寺恵瓊は椋本(現・津市芸濃町椋本)にまで進出しました。

水口岡山城から安濃津への侵攻路

行軍の速度

伏見城の落城は8月1日昼頃。その4日後の8月5日には西軍は鈴鹿峠を越えています。

Googleマップ先生に「伏見城跡→瀬田の唐橋→関・地蔵院」のルートを調べてもらうと、現在の一般道路で73kmあります。東海道53次では6つの宿場町を経る行程。ネット上で、戦国時代の行軍距離はがんばってせいぜい1日20kmだという情報が多くあります。伏見→関の行軍日程を想像してみると、例えば…

  • 8月1日 伏見城から山科付近まで移動(約10km)
  • 8月2日 瀬田経由で草津宿へ(約18km)
  • 8月3日 草津宿から水口へ(約25km)
  • 8月4日 水口岡山城で軍備を整え、土山へ(約11km)
  • 8月5日 土山から坂下経由で関へ(約16km・峠越え!)
  • 先遣隊はちょっと頑張って椋本まで(関→椋本約8km)

などと、結構大変な行軍になります。鈴鹿越えも坂下で泊まったほうが良いかも。すると土山でゆっくりせずに、水口→坂下(約21km)。でもこれ、半分は峠道(上り)ですよ。空想は膨らみますが、いずれにせよ、西軍が伊勢入りを急いだのは間違いないでしょう。

留守部隊の降伏申し入れ

慶長5年8月5日、長束正家安国寺恵瓊の部隊が椋本にまで進出しました。椋本から津城までは、今の一般道で14kmあまり。江戸時代の宿場では「窪田宿」(今のJR一身田駅の周辺)を残すだけ。1日で行軍できる距離です。*1

富田信高が出征している間、安濃津城の留守を預かったのは信高の家臣である富田主殿と、わずか二十数名の兵。到底かなわないと判断した富田主殿は、我が子を人質に出して、西軍に降伏を申し出ました。

西軍の伊勢侵攻の目的がひとつ、果たされたかに思われました。

長束・安国寺勢の混乱

一方そのころ、伊勢に侵攻した西軍の間に、「徳川家康がもう西へ引き返してくるんじゃないか」という噂が広がっていました。豊臣秀吉中国大返しのイメージもあったもしれません。兵たちは徳川家康という強大な敵を恐れていたのです。

そこに、伊勢湾を西進する船団の情報が入ります。もちろん、家康の本隊ではなく、富田・分部ら伊勢平野の東軍諸将の部隊であったのですが、長束・安国寺の軍勢は「家康が来た!」とパニックに陥り、鈴鹿や亀山に逃げる兵もありました。夜*2長束・安国寺は毛利本隊のいる関にまで陣を引きあげてしまいます。

降伏を申し出た安濃津城を占拠しないまま西軍が逃げてしまったので、富田信高・分部光嘉は無事に入城することができたのでした。

「勢陽雑記」の記載

以上は「津市史 第一巻」が引く「日本戦史 関原役」に基づく経緯でした。

一方、江戸前期の津藩の奉行が記した地誌「勢陽雑記」では、大筋は変わりませんが細部に違いがあります。

  • 富田・分部の兵は合わせて300人余りだったが、出港地・吉田から大船1隻、小船100隻余り*3に分乗し、旗などを1隻に5本、10本と立て並べた。
  • 海上を派手に「魚鱗の陣」「鶴翼の陣」などを取りながら(落ち着かない!)津の阿漕浦に漕ぎかけた。
  • 椋本・高野尾の西軍は、土山の猪鼻あたりまで逃げていった。(逃げすぎ。猪鼻は現・甲賀市土山町猪鼻で、鈴鹿峠を西へ下ったところ)

富田信高が諸葛孔明のごとくその策で西軍を追い払ったように書かれています。「勢陽雑記」は現地の人々の話を聞いてまとめたため、おもしろおかしく、話に尾ひれがついて伝わったと思われます。

 

次回、いよいよ侵攻軍が安濃津城に迫ります。

 

参考文献等

「津市史 上」津市(1959)

山中為綱「勢陽雑記」(1656):津の郡奉行が編纂した旧伊勢国の地誌

三重県サイト「伊勢別街道」(PDF・2024.09.22閲覧)

https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/kaidou/walking/pdf/isebetsu_all.pdf

GoogleMap

 

*1:「勢陽雑記」ではさらに4kmほど先の高野尾(現・津市高野尾町)まで進出しています。

*2:日本戦史をそのまま読むと、8月5日「夜」とも読めますが、上述の行軍ペースや、安濃津城留守の富田主膳の降伏交渉を考えると、西軍の降伏勧告の使いが軍勢に先行していたことを前提としても、西軍先遣隊の船団視認と撤退は8月6日以降であろうと考えます。

*3:「小船100余艘」という数自体は「日本戦史」も採用しています。