ダイコンオロシ@お絵描き

三重県の郷土史を中心に、時々お絵描き

関ヶ原の戦い@安濃津城6 西軍の増援と前哨戦

関ヶ原の戦い三重県(津・安濃津)、6回目です。

前回のあらすじ

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慶長5年8月初旬、西軍の先遣隊・長束正家安国寺恵瓊の部隊は安濃津城まであと1日の椋本(現・津市芸濃町椋本)まで進みました。

しかし、長束・安国寺の兵は、徳川家康を恐れるあまり、伊勢湾を渡ってくる安濃津城主・富田信高らの船団を家康本隊だと勘違いし、パニックになって関(現・亀山市関町)まで撤退する大失態を演じます。

西軍の増援

慶長5年8月中旬、増援を受けた西軍の兵数は3万にまで膨れ上がりました。「津市史 上巻」が引く「日本戦史」には、先導の長束正家(近江水口)のほか、西日本の諸大名の名が並びます。

2世武将も多いですが、後に大坂の陣で大活躍する長宗我部盛親毛利勝永など、西日本の準エース級部隊であると言えるでしょう。宍戸元続は毛利氏の家臣ですが、8月上旬の陣営には名前が見えなかったことから、毛利の増援部隊を率いて伊勢国入りしたものと思われます。

長束正家に続いて次の4名・地元領主が記載されます。wikipediaでは中江純澄も「知行地は、不明だが伊勢国であったともいわれる。」とされています(2024.09.22閲覧)。

山崎・松浦・蒔田の封地はいずれも現在の津市内です。9月22日の記事を参考としてください。

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諸将の軍議により、次の通り安濃津城攻略の予定がたてられます。

  • 8月24日:城下に進軍する。
  • 8月25日:竹束(防弾具)や塹壕を用いて城に肉薄する。
  • 8月26日:城を落とす。

籠城する兵が約1700程度と少ないことは当然につかんでいたでしょう。3万の大軍で3日(攻撃は2日間)で落とすという計画です。

なお、日付だけを見ると「夏の暑い時期に戦なんて大変!」と思ってしまいますが、表記は旧暦なので、現在の暦(グレゴリオ暦)になおすと10月1日から3日。秋に当たります。(夏休みの宿題、注意事項でした。)

長束・安国寺勢の抜け駆け

慶長5年8月23日、西軍のうち長束正家安国寺恵瓊の部隊が、予定より1日早く安濃津城近くまで進出します。8月上旬、伊勢湾を西上する富田・分部らの小勢の船団を、家康本隊と見誤って潰走した恥をすすごうというのです。

安濃津城の櫓の見張り兵が、城北を流れる塔世川(現・安濃川)の向こう側の茶臼山愛宕山*1・薬師山に敵の旗が見えると報告。長束・安国寺の兵が城の北側に姿を現しました。

東西に横たわる塔世川をはさんで、北に西軍先鋒、南に東軍・安濃津城という構図になりました、

敵発見を受けて富田信高は守りを固めるよう兵に指示します。

そして、綾井権之助・斎田隼人の両人を隊長とする鉄砲隊60名を塔世川南岸の堤防上に派遣し、敵情をうかがうよう命じました。

塔世川(現・安濃川)の南岸(城側)から、西軍の侵攻してきた川向う北西の丘陵地帯を望む。中央の木々は塔世山四天王寺。左の茶色のビルは三重県警察本部。

安濃津城・鉄砲隊による先制攻撃

川をはさんで敵情をうかがえと命じられた綾井・斎田の鉄砲隊。ところが、両隊長は血の気の多い性質だったのか、川を北に渡って、西軍が陣取る山をどんどん登っていきます。

これを見て驚いた富田信高は止めようとしますが間に合いません。

相手は大軍の先鋒です。こちらは60人の鉄砲隊、とんでもない奴らです。

山上、200から300人の西軍*2がいるところへ、綾井・斎田隊の鉄砲が次々と火を噴き、西軍兵がバタバタ倒れます。

少し長いですが、およそ半世紀後に津藩の奉行が記録した地誌「勢陽雑記」より、その部分を引きます。

綾井・斎田隊の猪突猛進と勝利~「勢陽雑記」の記述

信濃守矢倉より見給ふに両人堤をうち越え川を渡り、愛宕山、薬師山の間の谷をのぶるり馳せむかふ。信濃守下知していわく、綾井、斉田が深入りするぞあれ押しとめよと、敵つけ付入らば由々敷大事ぞとて、追々に手廻りの士兵を指遣しけり。其者追々駆付けて制しけれども綾井、斉田聞きもあへず進みければ跡よりゆきし者ともも追々に馳せ加わり、寄手の先陣山上に弐三百も簇(むら)がりし処を綾井、斉田得たりや者共打てよとて火を散してぞ討たせける。谷を上りにこみかへ々々打ける間、寄手の後陣たすけ寄可便りもなく先手弐百人討立うしろの谷底へまくれ落ちてけり。」

「勢陽雑記」は成立が明暦2年(1656年)なので、関ヶ原の戦い(1600年)をリアルタイムで知っている人物や、その者から話を伝え聞いた子、孫の世代からの聞き取りなどが基礎となっている可能性があります。文中の「信濃守」は富田信高のことです。

記録には「谷を上り」「山上」「谷底へ」などと山や谷が連続していることがうかがえます。実際に、現在の津駅から三重県庁(津市広明町)、さらに南の安濃川(塔世川)の周辺を歩くと、「山」「谷」というには大げさですが、アップダウンが連続する地形であることが分かります。

綾井・斎田隊の退却と弓削隊の援護

富田信高は両名が退却時に追撃されることをおそれ、射撃の名手・弓削忠左衛門に軽装兵30名を率い、川を渡って綾井・斎田の退却を援護するよう命じます。

案の定、綾井・斎田を追撃してきた西軍を弓削忠左衛門が狙撃し、その隊長を打ち倒します。隊長を失った西軍は塔世山に引き返しました。綾井・斎田・弓削と、籠城軍の鉄砲隊が大活躍して、緒戦は籠城軍の完勝に終わりました。

「勢陽雑記」によると、その後は、お互いに少数の足軽が遠矢をうちあったりした程度で日没となったため、その日は終戦となったということです。城の外を守っていた兵も、西軍の夜襲を警戒して、いったん城内に引き上げました。

長束・安国寺は8月上旬に続き良いところなし。安濃津城内の気勢は大いに挙がったことでしょう。

しかし、翌24日の朝、西軍の本隊が城下に侵攻してきます。

現在の塔世山四天王寺。西軍が駐屯し荒廃した。

次回、安濃津城下に西軍が侵攻・展開し、本格的な攻撃が始まります。

参考文献

「津市史 上」津市(1959)

山中為綱「勢陽雑記」(1656)

津市「津市案内記」津市(1924)

サイト:塔世山四天王寺(2024.09.28閲覧)

塔世山 四天王寺(三重県津市・曹洞宗)

*1:愛宕山は、現在、比佐豆知神社が鎮座する津市鳥居町の山。愛宕山は江戸時代以降の呼称で、元の名を茶臼山といった(「津市案内記」)。薬師山と、後述のたたら井山は詳細不明だが、塔世山四天王寺から西は大小の小山・丘陵が続き、いずれかをさすものと思われる。(詳細御存じの方、情報をください)

*2:人数は「勢陽雑記」