前回のあらすじ
慶長5(1600)年8月23日、東軍についた富田信高らが籠る安濃津城(1,700人)に西軍(3万)の先鋒が迫ります。塔世川(現・安濃川)を挟んで対峙した両軍ですが、籠城側のまさかの襲撃により戦いの幕が切って落とされます。
安濃津城主・富田信高の制止を振り切って渡河した綾井権之助・斎田隼人指揮の鉄砲隊60人に急襲され、200~300人の西軍部隊が散々に打ち破られます。
西軍は綾井・斎田隊が城へ退くところを追撃しますが、綾井・斎田を援護に来た籠城側の鉄砲の名手・弓削忠左衛門により指揮官が狙撃され、西軍は追撃を中止します。
緒戦は籠城側・東軍の勝利。日没をもって8月23日の戦闘は終了しました。
一方、関・椋本に布陣していた西軍本隊は、安濃津城の北に進出しつつありました。
西軍の増援と展開
おそらく8月23日のうちには、毛利秀元、吉川広家、宍戸元続、毛利勝永らの西軍本隊が安濃津城と川を挟んだ北側・塔世山の周辺に到着・布陣したと思われます。塔世山四天王寺(現・津市栄町)が西軍の陣所となったと伝わります。
翌24日、西軍は夜明けとともに行動を開始します。
城の西からの攻撃:長束正家・安国寺恵瓊・毛利勝永、そして毛利秀元
長束正家・安国寺恵瓊・毛利勝永らの軍は、塔世山からみて西側にある納所・刑部・神納の村々を焼き払いながら南に進み、神戸・半田に布陣します。*1
進軍中に民家に火を放ち、黒煙を立てて相手を威圧するのは、屋島の戦いの源義経のように古来からの手法です。城から見て、西側にどんどん上がる黒煙を見て、安濃津城内の兵は西軍の大軍が近づいてくる”圧”を覚えたでしょう。
やがて伊勢攻めの総大将たる毛利秀元も、城の西側に布陣します。おそらく毛利家重臣の吉川広家も同行したと思われます。*2
城の東から攻撃:宍戸元続、そして鍋島勝茂・龍造寺高房
宍戸元続は毛利家の重臣です。
城の西に回った毛利秀元らとは別に、毛利勢を率いて城を東から攻めます。
鍋島勝茂・龍造寺高房は城を北から攻めようとしますが、城の北側が攻めるには不便な地(守りが固いか、沼沢地であったか?)であると分かったので、塔世川の海岸寄りを瀬踏みして渡河します。
前の日(23日)には籠城軍が川を上り谷を上り西軍先鋒を襲撃して城に帰還しましたが、「ここは通れる」「ここは水深が深い」というミニマムな地理を知っているということは、実際の戦闘において有利・不利を分ける非常に重要な要素でした。(後述の、松坂城からの援軍も同様です。)
なお「瀬踏み」という単語は、渡れるかどうかを探るために川の深さを調べる行動を指す単語ですが、ビジネスで相手方の意図を探ることにも使い(昭和世代)、私は好きな言葉です。
まさかの松坂からの増援
城の東、海岸側は葦が群生する沼沢地があり、宍戸の兵はこれを嫌って避けました。
一方、南から安濃津城の東大手を目指して進む武士の一団がありました。東軍・古田重勝が拠る松坂城からの増援です。「勢陽雑記」は、林宗左衛門・森次郎兵衛・津田左兵衛・人見伊右衛門・児玉仁兵衛などの侍5騎、ある人の曰く小関四郎右衛門もこの増援と共に来た、と伝えています。単に5名の侍ではなく、その下に数名の雑兵が従っていたと思われます。
彼らは(安濃津の近所の松坂の武士だったので)勝手知ったる城東の沼沢地をどんどん進んでいきます。西軍・宍戸勢はこれを攻撃しますが地勢の有利はいかんともしがたく、籠城兵の攻撃もあり入城を許します。恐るべき敵前逆上陸です。
なお、2024年9月24日の記事に書きましたが、松坂城からの増援部隊は小瀬四郎左衛門以下50名の銃隊と伝わっています。「小関四郎右衛門」は「小瀬四郎左衛門」とも類似しており、同一人物の可能性があります。
小瀬ら松坂城からの応援部隊が安濃津城に入った後、追い付いてきた部隊なのか、もともと、松坂城の増援部隊が西軍攻撃までの入城に間に合わなかったのか、分からなくなります。
いずれにせよ、伊勢国において不利な東軍側についてでも手柄を立てようと城内に入った血気盛んな武士たちだったのでしょう。
西軍侵攻下の住民たち
長束・安国寺・毛利(勝永)が布陣した神戸・半田は、安濃津城からみて南の岩田川を渡った先にあり、城攻めには消極的な印象を受けますが、当時の神戸・半田に大軍の駐屯を助けるだけの寺院・家屋があったことを示しています。
2024年9月24日記事で書いた通り、安濃津城下の人々は早々に城内や周辺地域に避難しました。西軍が到達した時点で、神戸・半田や、焼かれた納所・刑部・神納といった村々は「もぬけの殻」であったと推測されます。
安濃津城近隣の住民は、それぞれの村の財産(仏像・仏画・書物など)をたずさえて遠方に避難したり、人に託して財産を避難させたりしました。
現に、長束ら西軍に焼かれた大神宮寺(現・津市神納町)には平安時代作と伝わる聖観音像(市指定文化財)があります。
大神宮寺のほか、同じく戦火に焼かれた観音寺、西来寺や、西軍に荒らされたであろう城北の四天王寺、蓮光院などにも、平安・鎌倉期と伝わる仏像や寺宝が残ります。これらは先人たちの必死の行動の結果、今に残る財産です。

城下町からの撤退~城下の焼亡
安濃津城の外、城下町でも兵たちは戦っていました。後北条氏・小田原城や後の大坂の陣のように、当時の城は城下町を含めての防衛体制だったのです。
慶長5年9月24日午前10時頃、城下町を守る部隊が西軍(宍戸・鍋島・龍造寺)の攻撃を支えきれずに城内に撤退します。その際、城の乾の方角(北西)にあった西来寺*3に火をかけました。西軍の拠点となることを避けるためです。西来寺を焼いた火は燃え広がり、城下町を焼き尽くしました。
城の北に火の手が上がるのを見た城兵に動揺が広がります。逆に西軍は勢いづいて攻撃を強めます。
次回、西軍攻撃2日目の後半。城に籠る分部光嘉らが奮戦し、西軍に損害を与えますが、やがて城兵は追い詰められていきます。
参考文献等
「津市史 上」津市(1959)
山中為綱「勢陽雑記」(1656):津の郡奉行が編纂した旧伊勢国の地誌
サイト:
伊勢の国 四天王寺
津市天照山大神宮寺
https://ryuho27itoi.wixsite.com/ryuho
馬寶山蓮光院初馬寺