ダイコンオロシ@お絵描き

三重県の郷土史を中心に、時々お絵描き

峯与八郎_唄に歌われた無双の若者

就中峯生年十八歳

無双若者也

其頃作小歌謡之云々

(勢州軍記)

天正12年5月6日夜半、加賀野井城に籠っていた約2,000人の伊勢国人が、絶望的な戦いの末に壊滅しました。

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歴史書に列記される討ち死にした将の中に、その死を惜しむ言葉が付された若者がいます。この記事の主人公・峯与八郎です。

峯与八郎(イメージ)

関一党と峯家

関氏のはじまり

峯与八郎の一族・峯家は、中世、現在の鈴鹿市や亀山市周辺を支配した関氏(関一党)の一族。

この関氏は、平清盛の孫・平資盛の後裔を称していました。

北伊勢、関の一党は六波羅の太政大臣清盛公の後胤 幕の紋挙羽蝶なり。先祖小松内大臣重盛公天下執権の頃、次男小松新三位中将資盛卿十三歳にて殿下乗合の無礼ありしを父公大きにいきどをりたちまち伊勢の国鈴鹿郡久我の庄に流し給ふ。資盛配所にて六年の春秋を送らる。元来伊賀・伊勢両国は平家重代の領知たれば、二州の住人平氏の一族并に諸侍等これを賞翫することなのめならず、其間に資盛子息一人まうけらる。後に盛国と号す。(北畠物語)

平資盛は少年時代、所謂「殿下乗合事件」を起こした罰として伊勢国に流されていました。

数え13歳から6年間、伊勢国で暮らす間に、後に平盛国を名乗る男児をもうけたということです。

但頼朝卿小松殿への報恩として其子孫をたすけ給ふ。かるがゆへに盛国を北条家に預らる。建仁四年四月又伊賀、伊勢の平氏等謀反の比ほひ、盛国の嫡子関左近太夫実忠初て勢州関の谷を給て関家と称す。(北畠物語)

北畠物語では、源平の戦いの後、源頼朝は平家の残党を厳しく追討しますが、平重盛(小松殿)の子孫は助命し、平盛国を北条氏に預けたと記しています。

その嫡子(平資盛の孫)、実忠は地名を取って関実忠と名乗りました。

これが関一党(関氏)の始まりだということです。

北畠物語・関一党の事

関一党の中の峯家

平資盛の子孫を称した関氏。

鎌倉時代は幕府に仕える侍として東国に居住しました。

しかし鎌倉幕府の滅亡にともない、実忠の六代の後の子孫、関四郎が伊勢国亀山に戻ってきたところ、近隣の侍は以前の主君であるとして関氏に従ったということです。

幕府方の領主となった関四郎は子に恵まれ、今の鈴鹿市や亀山市など伊勢国に子どもたちを配しました。

其後尊氏卿の治世に及て守護の手に属し子息あまた出生す。元来関家は富人なり。かるがゆへに嫡子を神戸に居置、後に法名柏岩と称す。次男を国府にすへ置く、一人は亀山の家督をゆづり、一人は鹿伏兎に居へ、一人はにすへ置き、其外処方に子孫を有付置く。(北畠物語)

関四郎が子を配した拠点は次のとおりです。

  • 神戸(かんべ):現・鈴鹿市神戸本多町
  • 国府(こう):現・鈴鹿市国府町
  • 亀山(かめやま):現・亀山市本丸町
  • 鹿伏兎(かぶと):現・亀山市加太市場
  • 峯(みね):現・亀山市川崎町

関氏の本拠である亀山を除き、関四郎の子等はその拠点の名を名乗りました。

神戸家国府家鹿伏兎家峯家です。

関の三家督は鈴鹿郡亀山の関家其一人なり、これ関家の惣領たり、河曲郡神戸家其二人なり、鈴鹿郡峯家其三人なり、いづれも足利家の侍となり、三家共に領知廿四郷凡侍六百人内馬上百騎小人四百人合一千の大将なり、同五大将は鈴鹿郡国府家其四人なり、同郡鹿伏兎家其五人なり、をのをの足利家に属し両家共に領知十二郷、其内国府一郷は庵芸郡白子なり、鹿伏兎家一郷は朝明郡富田なり、凡侍三百人内馬上五十騎小人二百人都合五百の大将也、其外五家の与力合千人以上関家の軍勢五千人なり(北畠物語・関一党の事)

関一党の三家督(御三家)はの本家(亀山)と神戸家峯家

それぞれ侍600(うち騎馬武者100)、雑兵400、合計1,000人の大将でした。

関一党の五大将は、三家督に国府家鹿伏兎家を加えた5つの家。

それぞれ侍300(うち騎馬武者50)、雑兵200、合計500の大将でした。

上記5つの家を合わせて兵5,000が伊勢国・関氏の勢力でした。

 

織田信長の伊勢侵攻

峯家を含む関一党は戦国時代まで近江・六角氏の影響下にあり、時には相争いながら、伊勢国北部に勢力を伸ばしていました。

しかし、尾張に織田信長が登場し、次第に武威を隣国に振るい始めます。

まず信長の家臣・滝川一益が蟹江・長島を拠点として北伊勢の諸侍を切り崩しました。

ここまで引用してきた北畠物語によると、永禄10年(1567)8月、織田信長が直々に数万の軍勢を率い、北伊勢に攻め込みました。

この時は、鈴鹿川の北・楠城に籠る楠氏を屈服させました。

さらに鈴鹿川の南、神戸家を攻め、神戸家家老・山路弾正が守る高岡城を攻めている途中、美濃国の不穏な情報に接した信長は伊勢攻めを切り上げ、美濃に引き上げました。

 

翌永禄11年(1568)2月、信長は4万の大軍を率いて再度伊勢国に侵攻し、神戸家を再度攻めました。

 

その様子を北畠軍記は次のように伝えています。

永禄十一年二月織田信長四万余騎を卒して又勢州に発向し給ふ。北方の諸侍千草・宇野部・稲生以下ことゝゞく其幕下に付く。信長かさねて高岡の城をかこミ責らる。神戸武勇をはげまし神戸の城にたてこもる。すでに一戦に及はんとするとき、信長智計をめぐらし高岡の陣所より使者をもつて神戸家につげらるゝやう、御辺と信長と和睦に於ては、我子を養子につかはし一味せんと也。神戸に子なきによつて早々和談す。夫養子を納れ国主を婿とすること治国の大功なり。此とき神戸蔵人礼として信長の陣所に来る、尾張の諸さふらひ日頃神戸の武威をつたへきくといひて見物す、其後神戸家一味のゆへ謀略をめぐらし、一党の諸家を信長の手下に引付んとす、これによつて国府鹿伏兎以下をのゝゝ織田の手に属す。(北畠物語・神戸氏和睦の事)

神戸城跡
(後世の天守台跡)

菰野の千草氏・宇野部氏、鈴鹿郡の稲生氏などを従えた信長は、強く抵抗する神戸家と養子縁組をすることで配下に取り込みました。

神戸家の信長恭順により、峯家国府家鹿伏兎もそれぞれ信長に恭順しました。

その後も六角氏側の勢力として独立していた関一党の惣領・関盛信もやがて信長に属すようになります。

 

後に天下人となる信長。

後の歴史を知る我々には、関一党の前途が開けたかに思えます。

しかし、伊勢国内の争乱がそれを許しませんでした。

 

峯家の没落

元亀元年(1570)9月、伊勢国の北端・長島で民衆が信長に叛して蜂起しました。

長島一向一揆です。

度重なる攻防の末、天正2年(1574)7月、信長は総勢8万(北畠物語)、総動員で長島を攻めます。

この戦いで、関一党の三家に大きな犠牲が生じます。

天正二年七月信長公・信忠卿御父子都合八万余騎をもよほし長島に発馬し、責破らんとて数日在陣したまふ。同九月下旬に至て一揆ことごとく滅亡す。しかれども同月廿九日一揆没落のとき、織田大隅守を先として宗徒の一族十余人討死す。此とき北畠信雄・神戸信孝は大島の城をせめられ、長野信包は唐櫃島の城をせめらる、又勢州の住人峯八郎四郎鹿伏兎六郎四郎相共に、信孝にしたがつて長島におゐて討死す、此外関盛信の嫡子関四郎も蒲生家に相ともなはれ長島にて戦死す。(北畠物語・長島退治の事)

神戸信孝(織田信孝)に従った関一党の峯家・鹿伏兎家は、それぞれ峯八郎四郎鹿伏兎六郎四郎が討死。

惣領の関盛信も嫡男・関四郎を失いました。

此たび峯・鹿伏兎討死によって信孝其跡を没収せらる。先峯八郎四郎子なし。舎弟与八郎は幼少なれば小知をあたへ峯の城を岡本太郎右衛門尉にたまふ。しかる間峯の与力山尾堀内同家人下井大久保以下の諸さふらひこれにしたがふ。鹿伏兎も若くして子なし。其家長鹿伏兎左亮・坂隼人等これをつたへければ、則領知減少し伯父鹿伏兎左京亮に給ふ。(北畠物語・長島退治の事)

峯八郎四郎に後継ぎとなる男子はおらず、弟の峯与八郎も数え8歳と幼かったため、織田信孝は非情にも所領を没収しました。

峯城は信高家臣の岡本太郎右衛門(岡本宗憲・良勝)に与えられ、峯家の家臣団もこれに仕えるようになりました。

ここに、峯の領主としての峯家は滅びました。

峯与八郎にはわずかな領地が与えられ、織田氏に仕える身となりました。

北畠物語
(2024年10月・松阪市立歴史民俗資料館)

 

峯与八郎

文献の紹介

ここまでは、戦国時代の伊勢国の情勢を記す史書として、最も成立年代が古いと考えられる北畠物語から峯氏の歴史を記してきました。

この北畠物語は北畠具教の弟、北畠具親の死をもって締められており、小牧長久手の戦いなど、峯与八郎の最後については触れられていません。

そのため、史料は勢州軍記に引き継ぎます。

勢州軍記北畠物語を参照したらしく、これまで述べたような事績はほぼ同じ記載となています。

勢州軍記
(2024年10月・松阪市立歴史民俗資料館)

加賀野井城の戦い

長島一向一揆の戦いから10年後の天正12年(1584)。

信長は本能寺の変で死に、明智光秀も討たれ、柴田勝家・織田信孝(神戸信孝)も自害したのち、伊勢国は西の羽柴秀吉と、東の織田信雄(北畠信雄)(その東には徳川家康)との最前線になっていました。

織田信孝に仕えていた伊勢侍は、柴田勝家の敗北によって離反し、羽柴秀吉や織田信雄にそれぞれ従い、峯与八郎も織田信雄の配下となっていました。

一、加賀の井攻めの事。同四月廿九日、秀吉卿楽田を立って勢を納め、同五月二日加賀の井の駿河守の子息弥八郎の城を囲み給う。信雄卿加勢をなす。林与五郎、子息十蔵・千草三郎左衛門尉・楠十郎・濱田与右衛門尉・泉甚六・小坂孫九郎・峯与八郎・上木等、都合其の勢二千余なり。(勢州軍記)

天正12年4月29日(1584年6月7日)、織田信雄・徳川家康と対峙する羽柴秀吉は、楽田(現・犬山市)の本陣を出立して、加賀野井城(現・羽島市)を攻めました。

加賀野井城には織田信雄の与力である林(神戸)、千草、楠、濱田ら伊勢国人が援軍として入城しており、峯与八郎もその中の一人でした。

峯与八郎とともに加賀野井城に入った楠十郎(イメージ)

秀吉本隊を迎え撃つ加賀野井城。

秀吉の大軍を前に、城は降伏を申し出ます。

しかし秀吉はその降伏を許さず、城兵は夜間・強行突破を試みます。

加賀の井降参を請うと雖も秀吉之を用いず。故に加賀の井謀を廻らし、同六日の夜、夜討を敵陣に撃ちて、駈け通さんと欲し、伊勢衆をもって子の刻許りに追手に打出で合戦を挑む。(勢州軍記)

「子の刻」は今でいう午後23時から翌午前1時。

伊勢国人が先鋒となって、城を打って出ました。

一番に林新右衛門尉、其の頃新蔵、打破りて駈け通る。終夜の戦に城衆、千草三郎左衛門尉・林十蔵・加藤太郎右衛門尉・峯与八郎・上木以下千許り討死す。就中、は生年十八歳無双の若衆なり。其の頃、小歌を作りて之を謡うと云々。

夜を撤した戦いで、伊勢国人の多くが討死しました。

その中で、峯与八郎は「無双若衆」として当時歌に歌われるほどだったと言います。

「無双若衆」は比類ない美男子であったととも、豪傑であったともとれる表現です。

いずれにせよ、堅苦しい男社会とは別に、女子供に歌にされるような、稀有な若者だったのでしょう。

峯与八郎(菖蒲色のイメージ)

峯与八郎の死によって、関一党の支族・峯家は歴史の表舞台から退場しました。

歴史の大筋には記されない、峯家の戦国時代は終わりました。

参考文献等

北畠物語:三重県総合博物館資料叢書No.9(2023)

勢州軍記 下: 三重県郷土資料叢書 第97集(1987)

ちょっとだけ首都圏だった三重の先っちょ

三重県は名古屋と京阪神という2つの大都市圏の中間に位置し、地域の区分では東海、中部、関西、近畿と様々なグループに分類されます。

 

その中のひとつ「近畿」。

Wikipediaでは次のとおり解説されています。

かつての令制国における畿内(五畿内、五畿。「畿」は「都」の意)とその近隣地域から構成される。(wikipedia「近畿」)

畿内五ヶ国は大和・山城・河内・和泉・摂津。

今の奈良県・京都府と、大阪府の大半、兵庫県の一部がそれにあたります。

古代から都がおかれた国々です。

 

三重県(伊勢・伊賀・志摩・紀伊(一部))はあくまでも、その畿内のご近所ということでその近く、「近畿」ということになっています。

 

しかし、古代には今の三重県の一部が、この「畿内」に含まれていました。

畿内だった伊賀国の西端

「畿内」が最初に定められたのは、西暦645年の「大化の改新」の翌年。

日本書紀に記録された「改新の詔」。

凡畿内東自名墾横河以来。南自紀伊兄山以来。〈兄。此云制。〉西自赤石櫛淵以来。北自近江狭々波合坂山以来。為畿内國。

読み下し文にすると次のとおり。

凡そ畿内(うちつくに)は、東は名墾(なはり)の橫川より以来(このかた)、南は紀伊の兄山(せのやま)より以来、西は赤石の櫛淵より以来、北はあふみの狹々波(ささなみ)の合坂山(あふさかやま)より以来を、畿内国(うちつくに)と為す。

首都圏である「畿内」は、東西南北それぞれの川や山を目印として、その範囲と定められました。

この中で、畿内の東の端が、今の名張市の西部に当ります。

畿内の東西南北

畿内の東端は名墾(名張)の横河。

この「横河」が現在のどの川にあたるのかは諸説あるようですが、今の「名張川」ではないかと思います。

大和から見れば東に向かう街道に横たわっているので「横河」だったのでしょう。

 

畿内の北端は近江狭々波の合坂山。

今の滋賀県大津市の西、逢坂山です。

そこより南は畿内なので、山背(山城)南部のほか、今の滋賀県の石山あたりも含まれてたかもしれません。


畿内の南端は紀伊の兄山。

今のかつらぎ町の背ノ山だということです。

今の奈良県五條市あたりや和歌山県橋本市は畿内に含まれていたと思われます。

 

上記の3つの境界を地図に落とし込むと、当時の畿内(東側)は下のようになります。

大化の改新直後の「畿内」

なお、地図には記載していませんが、畿内の西端は赤石櫛淵。

赤石は今の兵庫県明石市。

櫛淵はその周辺にあった「淵(深い川や海)」で、今の神戸市内という説が有力だそうです。

壬申の乱と名張・横河

その後の壬申の乱(672)の時、吉野を東へ逃れた大海人皇子は、隠(なはり・名張)郡の駅家を焼き、反乱の狼煙を挙げました。

「駅家」は街道沿いに置かれた公的施設です。

夜半に及びて、隠(なはりの)郡に至りて隠の驛家を焚く。因りて邑の中に唱へて曰く、天皇、東ノ國に入る。故人夫諸参掛。然るに一人も肯へて来らず。(日本書紀)

大海人皇子は天皇を名乗り、味方することを呼びかけますが、あえて大海人皇子のもとに集う人はいませんでした。

この後、「横河」に到着するので、名張の駅家は古代の「畿内」に在ったことが分かります。

将に横河に及らんとして、黒雲廣さ十余丈有りて天に経れり。時に天皇異みたまひ、則ち燭を挙して、親ら式を秉りて占ひて曰はく、天下両つに分れる祥なり。然も朕れ遂に天下を得む歟。即ち急に行して伊賀郡に到りて、伊賀の驛家を焚く。伊賀の中山に至りたまふ。而るに当国の郡司等、数百の衆を率ゐて帰りまつる。(日本書紀)

横河で瑞祥を見た大海人皇子は北上して伊賀郡に急行し、ここでも駅家を焼きますが。伊賀の郡司たちが数百の兵を率いて大海人皇子のもとに馳せ参じました。

畿内であった横河の西では兵は集まらず、東海道(畿内の外)である横河の東では数百の兵が皇子に味方する。

当時の王朝の影響力の境界がうかがい知れる記録です。

その後の畿内

改新の詔は、まだ行政区画としての「国」の境が明確ではない時期に発せられたものでした。

やがて律令国としての「国」境が徐々に定められ、「畿内」は律令国の単位となっていきました。

その確定の時期は分かりませんが、おそらく平城京へ遷都となる西暦710年より前には、およそ国境が定まっていたということです。

 

名張郡の西側は、畿内ではなくなりました。

しかし、その後も大阪・奈良と伊勢平野、そして海路東国を結ぶ街道の拠点として名張は栄えました。

いまはその街道沿いに近鉄大阪線が通り、古代の人々の往来をしのばせています。

 

 

参考文献等

黒板勝美 編「訓読日本書紀 下 」岩波書店(1944)*

Wikipedia「近畿地方」「畿内」(2026.03.18閲覧)

Wikisource「日本書紀」(2026.03.14閲覧)

 

*は国立国会図書館デジタルコレクション

平忠盛と人魚の伝承(津市河芸町)

平清盛に代表される「伊勢平氏」

 

清盛が大輪田泊(今の神戸港)を開き、厳島神社を創建し、最後は瀬戸内海を転戦して壇ノ浦に滅びた伊勢平氏。

西日本の海と結びつきが強いイメージですが、その名の通り元は伊勢国に拠点を構えた氏族。

東の海とも強い繋がりがありました。

伊勢平氏と伊勢国

伊勢平氏は伊勢平野の中央、安濃郡(今の三重県津市)などに拠点を置きました。伊勢国は京から見て東の海への入り口。

平家物語の巻第一に、平清盛の出世魚の逸話が語られますが、安濃津(今の津市)から熊野詣に出ています。

其の故は清盛未だ安芸守たりし時、伊勢国安濃津より、舟にて熊野へ参られけるに、大きなる鱸(スズキ)の、船へ跳り入りたりければ、先達申しけるは、昔周の武王の舟にこそ白魚は躍り入つたるなれ。如何様にも是は權現の御利生と覚候参る可しとぞ申しければ、さしる十戒を保って、精進潔斎の道なれども、自ら調味して、我が身くひ、家の子郎等共にも、くはせらる。(平家物語「鱸」)

清盛自身が魚を調理(調味)していることから、幼少期より海に近い生活を送っていたことをうかがわせます。

 

平忠盛と人魚

その父、武家として初めて昇殿を許された平忠盛。

伊勢平氏隆盛の基礎となった人物です。

彼の出生地は津市産品(うぶしな)に塚として伝えられており、江戸前期の地志 勢陽雑記にも記されています。

忠盛塚(津市産品)

彼と海のエピソードも、鎌倉時代の説話集 古今著聞集に記されています。

伊勢国別保といふ所へ、前刑部少輔忠盛朝臣下りたりけるに、浦人日ごとに網を引きけるに、或日大きなる魚の、頭は人のやうにてありながら、歯はこまかにて魚にたがはす、口さし出でて猿に似たりけり。身はよのつねの魚にてありけるを、三喉ひき出したりけるを二人してになひたりけるが、尾なほ土に多くひかれけり。人の近くよりければ、高くをめくこゑ、人の如し。又涙をながすも、人にかはらす。驚きあさみて、二喉をば、忠盛朝臣の許へもて行き、一喉をば浦人に返してければ、浦人皆切り食ひてけり。されども敢て事なし。その味殊によかりけるとぞ。人魚といふなるは、これていのものなるにや。(古今著聞集第二十巻 魚蟲禽獣)

伊勢国別保(現・津市河芸町)に平忠盛が逗留した時、地元の漁師の網に大きな、奇怪な魚がかかりました。

  • 頭は人のよう。
  • 歯は小さく魚のよう。
  • 口は前に出て猿のよう。
  • 体は普通の魚。
  • 二人担いでも尾がまだ地面につく大きさ。
  • 声は人のよう。
  • 涙を流す様子も人と同じ。

魚は3尾網にかかりましたが、このうち2尾を平忠盛に献上します。

1尾は死んで網にかかったか、すでに漁師が食べてしまったのでしょう。

2尾のうち1尾は領民に返されました。

領民が刺身にして食べたところ、大変美味で、特にお腹をこわすような「事」は起こらなかったということです。

地元の伝承

古今著聞集には平忠盛がその魚をどう扱ったかについては記されていません。

一方、平忠盛が気味悪がって食べなかったという説も地元では目にします。

マリーナ河芸の人魚の装飾

現在、「別保」であった河芸の臨海施設「マリーナ河芸」には人魚をモチーフにした装飾などがあります。

平清盛の出世魚エピソードのように、平忠盛が人魚の肉を食べたことで、出世の道を進んだ、というのも面白いかと思います。

 

参考文献

古今著聞集 日本文学大系 : 校註 第7巻 新訂版(1955)

日本古典全集 古今著聞集 下卷(1930)

 

楠十郎正盛~東西対立に散った16歳

天正12年5月、数え16歳の若武者が処刑されました。

楠十郎正盛、伊勢楠木氏の最後の当主でした。

 

伊勢楠木氏

伊勢楠木氏は、南北朝の英雄、楠木正成の末裔と伝わっています。

その系図は、昭和初期、滋賀県大津市の旧家が所蔵する「全休庵楠系図」を調査した藤田精一の「楠氏後裔楠正具精説」(昭和13)に記されています。

 

その系図によると、楠木正成の孫・正勝が応永の乱で負傷して死亡。

その子・正盛(後に正顕)が伊勢国の鹿伏兎(かぶと)に逃れたとされています。

初正盛、母従三位紀刑部卿俊文女、小字多聞丸、兵衛助、賜大河内顕雅諱、応永六年己卯十二月於堺浦合戦敗亡、始勢州鈴鹿郡鹿伏兎谷平之澤江落居、永享十年(二〇九八)戊午十一月没、行年六十二歲(全休庵楠系図)

鹿伏兎は伊勢北畠氏の二代国司・北畠顕泰の支配下。

北畠顕泰、信頼性が高いとされる史料「応永記」で幕府軍として堺攻略で激闘を繰り広げており、もと南朝方であった彼が楠木氏を保護したという伝承もあります。

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以下、「全休庵楠系図」による系譜です。

楠正成(楠木正成)の三男・正儀の子・正勝は応永の乱に大内義弘方として堺に籠城したが、戦傷がもとで死亡。

楠正勝には二人の男子があり、長男正盛(後に正顕)が鈴鹿郡鹿伏兎谷に逃れ、伊勢北畠氏の祖になりました。(次男正尭は丹波に逃れる)

楠正顕の長男は正重。桑名の千子村正に師事し、刀工・千子正重となりました。

楠正顕の次男は正理。文安4年(1447)、紀伊の北山八幡で討死。

楠正顕の三男が正威。兄に先立つ嘉吉3年(1443)、後南朝の一人として禁闕の乱に参加、比叡山で討死。「楠町史」によるとこの正威は、北畠氏により三代続けて三重郡楠を任されていた諏訪氏に代わって四代城主となり、父の正顕が城代を務たということです。

楠正威の長男、正富は伊勢木俣氏を名乗り神戸氏の与力となりました。

木俣正富の次男、正充は川俣左近太郎正重(祖父正重(初代)の孫)の養子となり、初代正重の系統を継ぎます。

川俣左近太郎正重の代に楠村に拠点を構えまています。

川俣正充の三男、正忠が楠村の所領を継ぎ、神戸具盛に仕えます。

永禄2年(1559)、楠木氏の赦免に伴い、近江六角氏の指示で楠木(楠)姓に戻りました。

楠正忠の子、楠正具は北畠教具の与力として大河内城に住みました。

永禄4年(1561)、信長の伊勢侵攻では八田城に籠り抵抗しました。

天正4年(1576)、石山本願寺に与し、信長の軍に討たれました。

楠正具には男子がなく、娘の子(正具の孫)、楠盛信が跡を継ぎました。

この盛信が、冒頭に名を挙げた楠正盛です。

 

十郎、実者庄三郎盛邦嫡、母七郎左衛門尉正具女、永禄十二年己已誕生。正具無嗣子、依為三七郎左衛門嗣、祖父忠盛隱居依而続家、為庄三郎後見、天正十二年己三月峰落城、濃州下向、同五月七日加賀野井合戦為生捕被刑刎、行年十六歲。(全休庵楠氏系図)

楠氏を継いだ楠十郎盛信は、天正12年(1584)、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康の戦いに巻き込まれます。

「小牧長久手の戦い」と称される一連の紛争で、加賀野井城(現・岐阜県羽島市)に籠った伊勢国領主の一人として戦い、敗れ、斬られました。

「全休庵楠氏系図」では、そのあとは「絶家」として、伊勢楠氏が滅びたと記しています。

楠十郎正盛(イメージ)

史実の「楠十郎」

全休庵楠氏系図はひとつの旧家に伝わったとされるものです。

江戸中期の地誌「勢陽五鈴遺響」も、次のように伊勢国三重郡の楠氏が楠木正成の後裔であるということを記しています。

楠ト名クルハ楠七郎左衛門尉橘正具 河内国楠正成力後孫ニテ永禄中ニ至リ累代此二住ス 信長記二見エタリ 旧名クスノキニシテ村名二モ名ケテ後ニ楠村ニ転訛セシナリ(勢陽五鈴遺響)

しかし、それより成立が古い「勢州軍記」や「勢陽雑記」は楠氏の出自を記していません。

江戸後期の藤堂藩の碩学・齋藤拙堂も「伊勢国司略記」の北畠顕泰の項で、楠氏の保護には言及していません。当時、太閤記などで楠正具(正盛の父)が楠木正成の後裔だという言説があったにも関わらず、です。

一方、千草(千種)氏については「疑はしき書」としながら、「伊勢巻」で千種忠顕の次男・侍従経顕を三重郡においたという記述を引用しています。*1

はたして伊勢国三重郡の楠氏が楠木正成の後裔であるかははっきりしません。

しかし、伊勢国楠氏の楠十郎という10代半ばの若者が、歴史の波にもまれて命を失ったのは史実です。

羽柴秀吉が毛利輝元に送った書状に「楠十郎」の名がみえます。

...、彼加賀野井城、去七日攻崩、大将分ニ者、勢住人采女・後藤・峯与八郎・あげき平三・楠十郎・千草常陸介・長ふけ并尾州之大将分ニ者、小坂孫九郎・林十蔵・加藤太郎右衛門尉・渡辺甚右衛門尉下拾人、其外城中者一人も不漏刎首候条、...

天正12年5月9日・毛利輝元宛・秀吉書状(京都大学所蔵古文書)

天正12年(1584)5月7日、加賀野井城を落とした秀吉の書状です。

討取った勢州(伊勢国)の大将の中に、楠十郎の名があります。

勢州軍記の記載

楠十郎の最後については、寛永12-13年(1635-36)ごろに成立したとされる「勢州軍記」に記されています。

秀吉卿楽田を立って勢を納め、同五月二日加賀の井の駿河守の子息彌八郎の城を囲み給う。信雄卿加勢をなす。林与五郎、子息十蔵・千草三郎左衛門尉・楠十郎・濱田与右衛門尉・小泉甚六・小坂孫九郎・峯与八郎・上木等、都合其の勢二千余なり。(勢州軍記・以下同じ)

天正12年(1584)5月、加賀野井城には織田信雄与力の伊勢国人が多く籠城していました。

その城を大軍で攻める羽柴秀吉。

城の将兵は降伏を申し入れます。

加賀の井降参を請うと雖も秀吉之を用いず。故に加賀の井謀を廻らし、同六日の夜、夜討を敵陣に撃ちて、駈け通さんと欲し、伊勢衆をもって子の刻許りに追手に打出で合戦を挑む。

しかし降伏は許されず、5月6日夜、城の将兵は強行突破を試みます。

 

一番に林新右衛門尉、其の頃新蔵、打破りて駈け通る。終夜の戦に城衆、千草三郎左衛門尉・林十蔵・加藤太郎右衛門尉・峯与八郎・上木以下千許り討死す。就中、峯は生年十八歳無双の若衆なり。其の頃、小歌を作りて之を謡うと云々。又、楠十郎生年十六歳、林松千世、生年十五歳、二人ともに生捕られ畢んぬ。此の戦に紛れ、大将林与五郎・加賀の井等潜に搦手を出で尾州に落行く。追手を撃ちて搦手より落つ。

夜を徹した戦いに、多くの伊勢国人が討たれました。

神戸氏(鈴鹿)の当主・林十蔵、千草氏(菰野)の当主・千草三郎左衛門尉、峯氏(亀山)の元当主の子・峯与八郎。

その中で、数え16歳の楠十郎も捕らえられます。

 

生捕りし楠十郎、御前に引参るに瀧川儀太夫の聟なりき。浅野弥兵衛尉をもって一命を請い奉りしが、秀吉之を用いず遂に首を刎られ畢んぬ。

楠十郎は滝川一益の甥、滝川益重(儀太夫)の娘と娶っていました。

浅野弥兵衛尉(浅野長政)を通じ助命を嘆願しますが、秀吉は聞き入れず、楠十郎は処刑されました。

 

現在の楠

四日市市楠町、その中心部からも外れた地に、楠城の跡があります。

伊勢楠氏は、鈴鹿川下流の三角州に城館を構えていました。

楠城跡(四日市市楠町)

何か遺構があるわけでもありません。

伊勢平野の中小領主・楠氏。

楠木正成の後裔とされる伝承も今は昔。

その居館と伝えられる地は、ただ、明治時代に植えられた楠が枝を伸ばし、周囲を見守っているようでした。

 

参考文献等

山中為綱「勢陽雑記」・三重県郷土資料叢書第13集(1968)

齋藤拙堂 「伊勢国司記略」三重県郷土資料叢書第79集(1976)

国立国会図書館デジタルコレクション

「楠氏後裔楠正具精説」藤田精一(1938)

「四日市市史 第7巻 (史料編 古代・中世)」(1991)

「楠町史」(1978)

安岡親毅「勢陽五鈴遺響 参」伊藤善太郎等篆刻(1904)

 

*1:「伊勢国司略記」については「三重県郷土史料叢書・第13集」(1968)を基にしていますが、北勢四十八家の項は欠落しているので、齋藤拙堂が別の見解を示していた可能性はあります。

安濃津城の戦いと松坂からの増援

慶長5年8月、関ヶ原の戦いの直前、伏見城を落とした西軍が伊勢平野になだれ込み、伊勢北部をほぼ手中に収めました。

そのような中、安濃津城(現在の津市)や松坂城(現在の松阪市)、岩出城(現在の玉城町岩出)などの城主は徳川家康の命を受け、上杉征伐から伊勢湾を渡って居城に戻り、西軍と対峙しました。

関ヶ原の直線の現・三重県

そして起こった安濃津城の戦い。

この戦いでは安濃津の勇士や富田信高の妻などの活躍が伝わりますが、松坂からの増援部隊の奮戦も記録されています。

彼らの戦いの様を、江戸時代の記録から再現したいと思います。

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西軍の伊勢侵攻

慶長5年8月1日、大坂を拠点とする西軍は伏見を落とし、東進を始めます。

主導する将の拠点は伊勢の隣国、近江の佐和山石田三成)、水口(長束正家)にあり、西の伊賀上野筒井定次の留守を高槻の新藤直頼に占拠されました。

そのような中、上杉討伐から伊勢に帰還した城主たち。

北から順に並べると次のとおりです。*1

  • 分部光嘉:伊勢上野(1万石)
  • 富田信高:安濃津(5万石)
  • 古田重勝:松坂(3万7千石)
  • 稲葉道通:岩出(2万5千石)

西軍は伏見を落とした西国大名を主力とする大軍ですが、伊勢の領主は、西軍についた者を含め5万石以下の領主ばかりでした。

分部光嘉は伊勢上野城の規模が小さいことから、城を放棄して安濃津城の富田信高に合流しました。

稲葉道通は西軍についた鳥羽の九鬼嘉隆と対峙していました。

そのような中で、松坂の古田重勝は最前線からやや後方にあり、西軍主力が侵攻してくる北の安濃津へ援軍を送ったのです。*2

 

江戸前期の藤堂藩の地誌「勢陽雑記」には、次のとおり記されています。

然る処に松坂の城主古田兵部少輔より、加勢として林宗左衛門、森次郎兵衛、津田左兵衛、人見伊右衛門、児玉仁兵衛なとといふ侍、五騎指越さる。ある人の曰く、小関四郎右衛門といふ者も加勢の内にて来れると也。(勢陽雑記)

少し時代が下って、江戸中期「関原軍記大成」では次のとおり。

松坂の城主古田兵部少輔も、籠城の覚悟ありけるが、阿野津は敵の手先なり。彼城の守肝要なりとて、家人小瀬四郎右衛門・建部清兵衛・林惣衛門・兒玉仁兵衛・人見伊右衛門等の物頭・使番を津の城へ加勢せられければ、…

(関原軍記大成 勢州阿野津城攻附和談)

書物により表記のゆれがありますが、小瀬四郎右衛門(勢陽雑記では小関四郎右衛門)ら松坂からの援軍が安濃津城に来たことが記されてあります。

津城跡・天守台南面

小瀬四郎右衛門の活躍

伏見城を落とした西軍は、長束正家の拠点・近江水口から鈴鹿峠を越え、北から安濃津に侵攻しました。

勢陽雑記では、松坂からの援軍は、東から攻める西軍の目前の湿地帯を渡って富田勢に合流。すでに安濃津に到着していた松坂勢に合流する追加の増援兵だったかもしれません。

ただ、このことは、皮肉にも湿地帯を渡るルートを西軍に教えることにもなってしまいました。西軍は増援兵のたどったルートをなぞり、安濃津城東に迫ります。

 

松坂勢は城の南東、岩田の浜を守備しました。

小瀬四郎右衛門は鉄炮頭として、西軍の攻撃を迎え撃ちます。

安濃津城下への西軍の侵攻

戦いの初日・8月23日には勝利を収めた籠城側も、24日には西軍の本格侵攻を受け、昼前には北方の城下町守備隊が城内に撤退しました。

 

↓前回の関連記事:安濃津城の戦い(1日目)

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又岩田の濱を固めし松坂勢も、弓・鉄砲を放ち掛けて、暫く敵を防ぎけれども、大敵防ぎ難きに依つて、是も持口へ引込ます。(関原軍記大成)

岩田の浜を守備する松坂隊も守備に努めますが、大軍の圧には抗えず、撤退を始めます。そこに、毛利勢の騎馬武者が突っ込んできます。

 

時に黒具足著たる武者一騎、鉄砲備を乗切つて、小瀬四郎右衛門に馳近付く。四郎右衛門是を見て、あれ打てといふ内に、彼の敵、小瀬に近付きて、抜討に二太刀切りけれども、鎧の上なれば、手も負はず。其時小瀬が持筒を持たせたる水野次郎八、鉄砲を取直し、件の敵を討落す。(関原軍記大成)

黒い鎧を着た騎馬武者が鉄砲の守備隊を突っ切って、隊長である小瀬四郎右衛門を狙って駆けてきます。

四郎右衛門は部下に「あれを撃て」と命じますが、あっというまに四郎右衛門に近づき、2回斬りつけますが、鎧の上だったので四郎右衛門は負傷しませんでした。

そうするうちに四郎右衛門の鉄砲を持っていた部下の水野次郎八が騎馬武者を狙撃し、撃ち倒しました。

 

四郎右衛門、其首取れと下知する内に、敵、透間なく駈合せければ、討捨てにして引退く。(中略)小瀬四郎右衛門は、彼の敵に二刀まで斬られ乍ら、打物の柄に手も掛けず、家来を下知して、乗廻したる始終の武者振、寄手も目を覚しけるとなり。(関原軍記大成)

四郎右衛門は撃ち倒した武者の首をとるよう指示しますが、なおも西軍の攻勢は続き、あきらめて城内に退却しました。

騎馬武者に斬りつけられながらも刀に手をかけることなく落ち着いた態度は、敵味方ともに感嘆したとのことです。

小瀬四郎右衛門(イメージ)

その活躍は、西軍の目にもとまりました。

安濃津城降伏の後、城主の富田信高は西軍についた神戸の滝川雄利(2万石)・雲出の蒔田広定(1万石)に一身田専修寺で対面しました。

彼是物語の序に、両人の云く、岩田の濱に於て、赤白段々の差物指したる武者、殊に勝れたる武者ぶり、名字をば何と申す人にやらと問ひければ、信州、彼は松坂の鉄炮頭、小瀬四郎右衛門と申す者なりと挨拶せらる。(関原軍記大成)

滝川・蒔田の両人は「岩田で赤白段々の旗を指した武者、見事な武者ぶりだった。なんという人か。」と問い、富田信高は「それは松坂の鉄砲隊長・小瀬四郎右衛門だ。」と答えました。

 

他にも活躍した松坂の援兵

小瀬四郎右衛門のほかにも活躍が記されている松坂の兵がいます。

林惣右衛門と人見伊右衛門の2人です。

林惣右衛門は、関原軍記大成で上記の小瀬四郎右衛門に続いて名を聞かれました。

又両人の曰く、黒白段々の差物指たる人、三の丸の退口に目に立つ稼ぎあり。是は如何なる人にやとあるに依って、彼も松坂の援兵、林惣右衛門と申す物頭なり、彼の両人を是へ召出すべし、各も対面有りて給はるべきやと申されければ、然らば召出し給へとあるに依って、信濃守、彼の両人を呼出し、面々が此度の骨折、御検使も唯今褒美あり。我等殊更祝著なりとて、小瀬四郎右衛門に長谷場國信の刀、林惣右衛門に備前長光の刀を與へらる。(関原軍記大成)

西軍が三の丸を破った際には「一番乗りの山脇作右衛門が槍で負傷し、後に死んだ」とも書かれています。

小瀬四郎右衛門と林惣右衛門はともに対面の場に呼ばれ、富田信高より刀を与えられました。

また、人見伊右衛門という人物も、関原軍記大成で活躍が記されています。

城兵本丸へ引入る時、秀元の家人内藤九郎左衛門・何某六右衛門・中川清左衛門・茶道善斎彼是五人、城兵と一つになつて本丸へ入る。中川清左衛門は、城主信濃守を討つべしと思ひけるには、殿は何方にましますぞやといひけるを、松坂の弓長人見伊右衛門、突臥せて其首を取る。彼の中川、紫の母羅掛けたりし故に、人見伊右衛門咎めて忽ち討取りけるとかや。(関原軍記大成)

藤堂藩の地誌にも、安濃津城中に西軍の兵2人が紛れ込んだエピソードがあり、うち1人「紫母衣の武者」を討取った者の名は記されていません。

大勢にて取巻天守の下、梨の木の下にて打ち取りけり。(勢陽雑記)

一方、関原軍記大成では紫の母衣をつけた中川清左衛門を人見伊右衛門が見とがめ、たちまち討取ったと書かれています。

 

松坂に戻った小瀬・林・人見はともに主君・古田重勝に賞せられ、それぞれ加増を受けました。

松坂城には西軍・鍋島勝茂が向かいますが、その時すでに東軍の先手が岐阜城を落としており、毛利・吉川ら西軍主力は北上したため、松坂城での戦いはなく、和平が結ばれました。

松坂城

なお、関原軍記大成を記した宮川忍斎(宮川尚古)は母方の親戚で、安濃津城の戦いの当時、松坂城にいた者の孫から聴取をしているようです。

又別本に、松坂加勢は古田助右衛門・千田主水・林惣右衛門・小瀬四郎右衛門・人見伊右衛門・加藤五平治・兒玉仁兵衛・津田佐兵衛・生駒左内・建部清兵衛・片岡平兵衛・森次郎兵衛・飯沼太郎・齋藤孫右衛門・佐夫利九之允・同伊之助・馬場・犬養等、都て十八人なりと記す。尚古按ずるに、余が母族森五郎左衛門と号する者は、彼の森次郎兵衛が孫にて、八兵衛が子なり。次郎兵衛は組頭、八兵衛は鉄炮頭なりて、古田の家に居たりし故に、五郎左衛門伝えて語りけるは、古田助右衛門が、其頃石丸与三といひて、松坂の城代なり。加勢にて津の城に籠るべき者にはあらず。(関原軍記大成)

成立が古い「勢陽雑記」に「関原軍記大成」に松坂の兵の活躍が詳細に記されているのは、このあたりの事情もあったのでしょう。

 

なお、別の書「東遷基業」には、「ある書物には、小瀬四郎右衛門が自分の手柄を大げさに言っているが、大した働きではなかった。他の者が問い詰めたら広言しなくなったという記録もある。だから小瀬四郎右衛門の活躍は(東遷基業には)載せない」と書かれています。

少々大げさに売り込みすぎて評判が悪かったか、上手にやりやがったとねたまれていたのかもしれません。

或人の聞書に云小瀬四郎右衛門と云しハ尾州の御家臣小瀬新右衛門と云者の従父弟也 浅野幸長の息女ハ尾州の御廉中なる故此の縁により四郎右衛門は浅野家へ給出されて今其子孫あり 四郎右衛門は古田氏よりの加勢の内にてはありけれとも人並にて何の目に立つ働の有たる事をハはなかりしか、彼の籠城の時我一人の働の様にミつから張皇して広言する故浅野家にて前田越前守岡佐左衛門なと来着の時津の城籠城の者もありて段々不審をかけて相尋けれハ四郎右衛門広言なりとして悉く閉口せし也 諸書に四郎右衛門事を張皇して載せたるはこれみな四郎右衛門いひし所を実として載せたる為也信すべからすとあり 此故に今悉く除て取らす(東遷基業)

参考資料

参謀本部「日本戦史 関原役」(1893-1911)

宮川尚古「関原軍記大成」  黒川真道翻刻(1916)

→上記2件・国立国会図書館デジタルアーカイブ

佐久間立斎「東遷基業」(国文学研究資料館所蔵)
→上記1件・国書データベース

山中為綱「勢陽雑記」三重県郷土資料刊行会翻刻(1968)

「津市史 第1巻」津市(1959)

 

 

*1:ほかにも織田信重:林(1万石)が東軍につきましたが、当時の動向は不明です。

*2:松坂の西方、大和国宇陀郡から西軍についた多賀・朽木が侵攻する動きがあり、稲葉道通とともに備えてはいました。

イザナミとカグツチ(イラスト)

先日記事を書いた「花の窟神社」と「産田神社」に祭られているイザナミカグツチのイラストです。

図らずも母を焼いてしまったカグツチ、子に身を焼かれたイザナミ、ともに両神社に仲良く祭られています。

イザナミカグツチ

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産田神社 ~太古の祭祀跡・神籬(ひもろぎ) ~

有馬や祭は花の幡立て 笛に鼓にうたひ舞ひ うたひ舞ひ

花のや窟は神の窟ぞ 祝へや子ども 祝へ子ら 祝へ子ら

 

三重県熊野市、熊野三山こそありませんが、熊野古道のほか、熊野信仰に関わる痕跡が残っています。

その中には、熊野信仰の源流のひとつではないか、と思われるものもあります。

 

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前回記事では日本最古の神社・花の窟神社がイザナミノミコトを葬った地であり、日本書紀に伝わる花や幡(旗)を用いた祭が現代にまで連綿と続いていることをご紹介しました。

花の窟神社がある熊野市有馬町。

イザナミが葬られたとされる「紀伊国熊野有馬村」(日本書紀)の地は、江戸時代後期の地誌「紀伊風土記」に有馬荘、口(くち)有馬村・奥有馬村として記されます。

紀伊風土記・有馬荘

紀伊風土記の地図には、口有馬の「花岩屋」とともに、奥有馬の「産田社」が描かれています。

紀伊風土記・有馬荘の口有馬・奥有馬

今回は、この産田社、「産田神社(うぶたじんじゃ)」についてお話ししたいと思います。

産田神社

産田神社は熊野市有馬町、同じ町内の花の窟神社の内陸側に鎮座する神社です。

産田神社・鳥居

産田神社

主祭神三重県神社庁ウェブサイトによると、伊弉諾尊イザナギ)、伊弉冉尊イザナミ)、軻遇突智命カグツチ)、天照皇大神大山祇命、木華開耶姫命、神武天皇

 

イザナミカグツチは花の窟神社の祭神と同じです。

産田神社の祭神について、紀伊風土記は次のとおり記しています。

産土神 境内周三町半 禁殺生

本社二社

 伊弉冉尊社 方六尺

 軻遇突智命 伊弉諾尊 社 方六尺

村中にあり 口奥有馬山崎三箇村産土神なり 土人傳へいふ 伊弉冉尊此地にて軻遇突智神を産み給ふ故に産田と名つくといふ

紀伊風土記

紀伊風土記が記された江戸時代後期には、イザナミ伊弉冉尊)が祀る社と、カグツチ軻遇突智)とイザナギ伊弉諾尊)が祀る社が並んでいました。

イザナミカグツチは花の窟神社の祭神です。

紀伊風土記はさらに続けます。

神功皇后 応神天皇を産み給へる地を宇彌(うみ)といふか如し 後其地を標する為に此地に社を建てゝ伊弉冉尊軻遇突智神とを祭れるならむ 伊弉諾尊は夫神なれは後に并へて祭れるなり[永正年中の棟札にも産田二所とあれは古くより二社として祭れるなるへし]

紀伊風土記

現代語にすると、およそ次のとおりでしょうか。

神功皇后応神天皇を産んだ地を「うみ」といったように(この産田も、この地でイザナミカグツチを産んだ場所だと示すために「産」の名をつけて)イザナミカグツチを祭ったのだろう。

イザナギイザナミの夫なので(イザナミカグツチが祀られているこの社に)後に併せて祭ったのだろう。

永正年間(1501~1521)の棟札にも「産田二所」とあるので、古くは2つの社(イザナミカグツチ)として祭られたのだろう。

 

産田神社は、もともとイザナミカグツチを祭る神社で、イザナミカグツチを産んだ場所なので、「産」田と名付けられた、ということです。

そして、カグツチを産んだ際の火傷でイザナミは亡くなります。

産田神社の地で亡くなったイザナミは、そこから東へまっすぐ2km足らず、海岸の目の前の巨石(花の窟)に葬られたということになります。

 

産田神社・本殿

産田神社と花の窟の位置関係、地図上に落としてみると、産田神社の真っすぐ東に花の窟が位置しています。

イザナミが没した地とその墓所

偶然だとは思えないほどきれいに東西に並んでいます。

産田神社と花の窟の位置
(アプリ・スーパー地形のデータに文字を追加)

原始的な祭祀跡・神籬(ひもろぎ)

産田神社の本殿の左右に、長方形の形に整えられた石の枠の中に、丸い石が縦に5個並べられた不思議な石積みがあります。

神籬(ひもろぎ)という古代の祭祀の痕跡です。

本殿向かって左側の神籬

本殿向かって右側の神籬

この神籬について、神社に解説が貼られていました。

神籬(ひもろぎ)を解説した神社の掲示

内容を簡潔にまとめると、次のとおりです。

  • 神籬と思われる場所は、昔からここに落ちた枯葉などは箒(ほうき)ではくことなく手で掃除するようにきつく言い伝えられてきたこと。
  • 昭和35年5月、国学院大学の小野祖教博士が熊野に来た際に調査した結果、神籬は「約二千年前の崇神天皇時代の祭祀遺跡ではないか」、「東北地方で1例のみあるだけで、これで2例目」とのこと。
  • 神籬は大古・社殿のない時代に神様をお迎えする場所で神の鎮座する区域を示すものであること。
  • 周辺では弥生時代初期の土器・石器などが発掘されていること。

崇神天皇云々の部分など、小野博士のサービストークもあったかもしれません。

が、私が重要視したいのは、小野博士が鑑定して初めて神籬(ひもろぎ)たど認知したととれるところです。

神職含む地元住民は、用途が分からなくなった石積みを、それでも「手で掃除するようにきつく言い伝え」、大事に守り伝えてきたのです。

他所で神籬とみられる遺構が発掘された、という報告書を読んだことがありますが、産田神社の神籬は発掘された遺構ではなく、人々の手によって守られて伝世したものである、ということなのです。

産田神社、兵火に焼かれる

産田神社は榎本氏(後に有馬氏)が神官として社領を掌握していましたが、戦国時代の荒波がこの地を飲み込み、産田神社も兵火に焼かれました。

天正の頃榎本氏断絶し宮社も盡兵火に罹りて古記等伝はらさる事惜むへし、社領は堀内氏の時まては猶田地五町ありしに浅野氏の時収公せらる

紀伊国風土記

社伝は失われ、創建の伝承などは分からなくなってしまいました。

棟札の解説板

もう一つの産田神社

熊野信仰の中心地・熊野本宮大社

その第一殿に祭られるイザナミ

有馬村から音無村(熊野本宮)にお迎えしたという伝承があります。

熊野本宮大社

その本宮大社の目の前に、産田社という小さな社があります。

社殿を持たず、鳥居と石殿だけの簡素なお社です。

熊野本宮・産田社

御祭神は伊弉冉尊

熊野市有馬町(日本書紀の有馬村)の産田神社や花の窟神社と同じ、イザナミです。

紀伊風土記には熊野本宮大社の摂社末社として「産田社 石殿造」と記されており、今と同様の姿だったと想像されます。

熊野本宮大社は明治の大洪水で被害を被り、本宮は高台に移転しました。

有馬村からお迎えされた地は緑豊かな跡地「大斎原」として熊野川のほとりに静かな時を刻んでいます。

熊野本宮・大斎原
明治以前に本宮の社殿が建っていた旧地

 

 

参考文献等

紀伊風土記著者 仁井田好古 著 歴史図書社 1970

紀伊国名所図会 熊野篇2 高市志友 著, 高市志直 編 昭和16

三重県神社庁教化委員会 » 産田神社

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