就中峯生年十八歳
無双若者也
其頃作小歌謡之云々
(勢州軍記)
天正12年5月6日夜半、加賀野井城に籠っていた約2,000人の伊勢国人が、絶望的な戦いの末に壊滅しました。
歴史書に列記される討ち死にした将の中に、その死を惜しむ言葉が付された若者がいます。この記事の主人公・峯与八郎です。

関一党と峯家
関氏のはじまり
峯与八郎の一族・峯家は、中世、現在の鈴鹿市や亀山市周辺を支配した関氏(関一党)の一族。
この関氏は、平清盛の孫・平資盛の後裔を称していました。
北伊勢、関の一党は六波羅の太政大臣清盛公の後胤 幕の紋挙羽蝶なり。先祖小松内大臣重盛公天下執権の頃、次男小松新三位中将資盛卿十三歳にて殿下乗合の無礼ありしを父公大きにいきどをりたちまち伊勢の国鈴鹿郡久我の庄に流し給ふ。資盛配所にて六年の春秋を送らる。元来伊賀・伊勢両国は平家重代の領知たれば、二州の住人平氏の一族并に諸侍等これを賞翫することなのめならず、其間に資盛子息一人まうけらる。後に盛国と号す。(北畠物語)
平資盛は少年時代、所謂「殿下乗合事件」を起こした罰として伊勢国に流されていました。
数え13歳から6年間、伊勢国で暮らす間に、後に平盛国を名乗る男児をもうけたということです。
但頼朝卿小松殿への報恩として其子孫をたすけ給ふ。かるがゆへに盛国を北条家に預らる。建仁四年四月又伊賀、伊勢の平氏等謀反の比ほひ、盛国の嫡子関左近太夫実忠初て勢州関の谷を給て関家と称す。(北畠物語)
北畠物語では、源平の戦いの後、源頼朝は平家の残党を厳しく追討しますが、平重盛(小松殿)の子孫は助命し、平盛国を北条氏に預けたと記しています。
その嫡子(平資盛の孫)、実忠は地名を取って関実忠と名乗りました。
これが関一党(関氏)の始まりだということです。

関一党の中の峯家
平資盛の子孫を称した関氏。
鎌倉時代は幕府に仕える侍として東国に居住しました。
しかし鎌倉幕府の滅亡にともない、実忠の六代の後の子孫、関四郎が伊勢国亀山に戻ってきたところ、近隣の侍は以前の主君であるとして関氏に従ったということです。
幕府方の領主となった関四郎は子に恵まれ、今の鈴鹿市や亀山市など伊勢国に子どもたちを配しました。
其後尊氏卿の治世に及て守護の手に属し子息あまた出生す。元来関家は富人なり。かるがゆへに嫡子を神戸に居置、後に法名柏岩と称す。次男を国府にすへ置く、一人は亀山の家督をゆづり、一人は鹿伏兎に居へ、一人は峯にすへ置き、其外処方に子孫を有付置く。(北畠物語)
関四郎が子を配した拠点は次のとおりです。
- 神戸(かんべ):現・鈴鹿市神戸本多町
- 国府(こう):現・鈴鹿市国府町
- 亀山(かめやま):現・亀山市本丸町
- 鹿伏兎(かぶと):現・亀山市加太市場
- 峯(みね):現・亀山市川崎町
関氏の本拠である亀山を除き、関四郎の子等はその拠点の名を名乗りました。
神戸家、国府家、鹿伏兎家、峯家です。
関の三家督は鈴鹿郡亀山の関家其一人なり、これ関家の惣領たり、河曲郡神戸家其二人なり、鈴鹿郡峯家其三人なり、いづれも足利家の侍となり、三家共に領知廿四郷凡侍六百人内馬上百騎小人四百人合一千の大将なり、同五大将は鈴鹿郡国府家其四人なり、同郡鹿伏兎家其五人なり、をのをの足利家に属し両家共に領知十二郷、其内国府一郷は庵芸郡白子なり、鹿伏兎家一郷は朝明郡富田なり、凡侍三百人内馬上五十騎小人二百人都合五百の大将也、其外五家の与力合千人以上関家の軍勢五千人なり(北畠物語・関一党の事)
関一党の三家督(御三家)は関の本家(亀山)と神戸家、峯家。
それぞれ侍600(うち騎馬武者100)、雑兵400、合計1,000人の大将でした。
関一党の五大将は、三家督に国府家、鹿伏兎家を加えた5つの家。
それぞれ侍300(うち騎馬武者50)、雑兵200、合計500の大将でした。
上記5つの家を合わせて兵5,000が伊勢国・関氏の勢力でした。
織田信長の伊勢侵攻
峯家を含む関一党は戦国時代まで近江・六角氏の影響下にあり、時には相争いながら、伊勢国北部に勢力を伸ばしていました。
しかし、尾張に織田信長が登場し、次第に武威を隣国に振るい始めます。
まず信長の家臣・滝川一益が蟹江・長島を拠点として北伊勢の諸侍を切り崩しました。
ここまで引用してきた北畠物語によると、永禄10年(1567)8月、織田信長が直々に数万の軍勢を率い、北伊勢に攻め込みました。
この時は、鈴鹿川の北・楠城に籠る楠氏を屈服させました。
さらに鈴鹿川の南、神戸家を攻め、神戸家家老・山路弾正が守る高岡城を攻めている途中、美濃国の不穏な情報に接した信長は伊勢攻めを切り上げ、美濃に引き上げました。
翌永禄11年(1568)2月、信長は4万の大軍を率いて再度伊勢国に侵攻し、神戸家を再度攻めました。
その様子を北畠軍記は次のように伝えています。
永禄十一年二月織田信長四万余騎を卒して又勢州に発向し給ふ。北方の諸侍千草・宇野部・稲生以下ことゝゞく其幕下に付く。信長かさねて高岡の城をかこミ責らる。神戸武勇をはげまし神戸の城にたてこもる。すでに一戦に及はんとするとき、信長智計をめぐらし高岡の陣所より使者をもつて神戸家につげらるゝやう、御辺と信長と和睦に於ては、我子を養子につかはし一味せんと也。神戸に子なきによつて早々和談す。夫養子を納れ国主を婿とすること治国の大功なり。此とき神戸蔵人礼として信長の陣所に来る、尾張の諸さふらひ日頃神戸の武威をつたへきくといひて見物す、其後神戸家一味のゆへ謀略をめぐらし、一党の諸家を信長の手下に引付んとす、これによつて峯・国府・鹿伏兎以下をのゝゝ織田の手に属す。(北畠物語・神戸氏和睦の事)

(後世の天守台跡)
菰野の千草氏・宇野部氏、鈴鹿郡の稲生氏などを従えた信長は、強く抵抗する神戸家と養子縁組をすることで配下に取り込みました。
神戸家の信長恭順により、峯家・国府家・鹿伏兎もそれぞれ信長に恭順しました。
その後も六角氏側の勢力として独立していた関一党の惣領・関盛信もやがて信長に属すようになります。
後に天下人となる信長。
後の歴史を知る我々には、関一党の前途が開けたかに思えます。
しかし、伊勢国内の争乱がそれを許しませんでした。
峯家の没落
元亀元年(1570)9月、伊勢国の北端・長島で民衆が信長に叛して蜂起しました。
長島一向一揆です。
度重なる攻防の末、天正2年(1574)7月、信長は総勢8万(北畠物語)、総動員で長島を攻めます。
この戦いで、関一党の三家に大きな犠牲が生じます。
天正二年七月信長公・信忠卿御父子都合八万余騎をもよほし長島に発馬し、責破らんとて数日在陣したまふ。同九月下旬に至て一揆ことごとく滅亡す。しかれども同月廿九日一揆没落のとき、織田大隅守を先として宗徒の一族十余人討死す。此とき北畠信雄・神戸信孝は大島の城をせめられ、長野信包は唐櫃島の城をせめらる、又勢州の住人峯八郎四郎・鹿伏兎六郎四郎相共に、信孝にしたがつて長島におゐて討死す、此外関盛信の嫡子関四郎も蒲生家に相ともなはれ長島にて戦死す。(北畠物語・長島退治の事)
神戸信孝(織田信孝)に従った関一党の峯家・鹿伏兎家は、それぞれ峯八郎四郎、鹿伏兎六郎四郎が討死。
惣領の関盛信も嫡男・関四郎を失いました。
此たび峯・鹿伏兎討死によって信孝其跡を没収せらる。先峯八郎四郎子なし。舎弟与八郎は幼少なれば小知をあたへ峯の城を岡本太郎右衛門尉にたまふ。しかる間峯の与力山尾・堀内同家人下井・大久保以下の諸さふらひこれにしたがふ。鹿伏兎も若くして子なし。其家長鹿伏兎左亮・坂隼人等これをつたへければ、則領知減少し伯父鹿伏兎左京亮に給ふ。(北畠物語・長島退治の事)
峯八郎四郎に後継ぎとなる男子はおらず、弟の峯与八郎も数え8歳と幼かったため、織田信孝は非情にも所領を没収しました。
峯城は信高家臣の岡本太郎右衛門(岡本宗憲・良勝)に与えられ、峯家の家臣団もこれに仕えるようになりました。
ここに、峯の領主としての峯家は滅びました。
峯与八郎にはわずかな領地が与えられ、織田氏に仕える身となりました。

(2024年10月・松阪市立歴史民俗資料館)
峯与八郎
文献の紹介
ここまでは、戦国時代の伊勢国の情勢を記す史書として、最も成立年代が古いと考えられる北畠物語から峯氏の歴史を記してきました。
この北畠物語は北畠具教の弟、北畠具親の死をもって締められており、小牧長久手の戦いなど、峯与八郎の最後については触れられていません。
そのため、史料は勢州軍記に引き継ぎます。
勢州軍記も北畠物語を参照したらしく、これまで述べたような事績はほぼ同じ記載となています。

(2024年10月・松阪市立歴史民俗資料館)
加賀野井城の戦い
長島一向一揆の戦いから10年後の天正12年(1584)。
信長は本能寺の変で死に、明智光秀も討たれ、柴田勝家・織田信孝(神戸信孝)も自害したのち、伊勢国は西の羽柴秀吉と、東の織田信雄(北畠信雄)(その東には徳川家康)との最前線になっていました。
織田信孝に仕えていた伊勢侍は、柴田勝家の敗北によって離反し、羽柴秀吉や織田信雄にそれぞれ従い、峯与八郎も織田信雄の配下となっていました。
一、加賀の井攻めの事。同四月廿九日、秀吉卿楽田を立って勢を納め、同五月二日加賀の井の駿河守の子息弥八郎の城を囲み給う。信雄卿加勢をなす。林与五郎、子息十蔵・千草三郎左衛門尉・楠十郎・濱田与右衛門尉・泉甚六・小坂孫九郎・峯与八郎・上木等、都合其の勢二千余なり。(勢州軍記)
天正12年4月29日(1584年6月7日)、織田信雄・徳川家康と対峙する羽柴秀吉は、楽田(現・犬山市)の本陣を出立して、加賀野井城(現・羽島市)を攻めました。
加賀野井城には織田信雄の与力である林(神戸)、千草、楠、濱田ら伊勢国人が援軍として入城しており、峯与八郎もその中の一人でした。

秀吉本隊を迎え撃つ加賀野井城。
秀吉の大軍を前に、城は降伏を申し出ます。
しかし秀吉はその降伏を許さず、城兵は夜間・強行突破を試みます。
加賀の井降参を請うと雖も秀吉之を用いず。故に加賀の井謀を廻らし、同六日の夜、夜討を敵陣に撃ちて、駈け通さんと欲し、伊勢衆をもって子の刻許りに追手に打出で合戦を挑む。(勢州軍記)
「子の刻」は今でいう午後23時から翌午前1時。
伊勢国人が先鋒となって、城を打って出ました。
一番に林新右衛門尉、其の頃新蔵、打破りて駈け通る。終夜の戦に城衆、千草三郎左衛門尉・林十蔵・加藤太郎右衛門尉・峯与八郎・上木以下千許り討死す。就中、峯は生年十八歳無双の若衆なり。其の頃、小歌を作りて之を謡うと云々。
夜を撤した戦いで、伊勢国人の多くが討死しました。
その中で、峯与八郎は「無双若衆」として当時歌に歌われるほどだったと言います。
「無双若衆」は比類ない美男子であったととも、豪傑であったともとれる表現です。
いずれにせよ、堅苦しい男社会とは別に、女子供に歌にされるような、稀有な若者だったのでしょう。

峯与八郎の死によって、関一党の支族・峯家は歴史の表舞台から退場しました。
歴史の大筋には記されない、峯家の戦国時代は終わりました。
参考文献等
北畠物語:三重県総合博物館資料叢書No.9(2023)
勢州軍記 下: 三重県郷土資料叢書 第97集(1987)






















