伊勢北畠氏・2代目は北畠顕泰(あきやす)です。
前回記事(2024年11月4日)と同様、特に注釈がない場合は斎藤拙堂「伊勢国司記略」及びその引用文によります。
※2025年1月8日:三重郡刑部の戦いを追記
土岐氏との戦いで勝利(1369年)
北畠顕泰の活躍は父の顕能(あきよし)の代から始まります。
正平二十四年九月、國司の兵土岐大膳大夫頼康と戦ひて打ち勝ちぬ。同十年國司自ら三重郡へ發向して、所々の城を攻とらる。(勢陽雑記が引く細々要記、南方紀傳)
南朝正平24(1369)年に国司・北畠顕能の軍が土岐頼康と戦ってこれを破りました。翌1370年は国司自ら兵を率いて三重郡*1を攻め取りました。
ここに記される2回の戦い、後の1370年の三重郡侵攻は「国司自ら」率いていますが、前の1369年の土岐氏との戦いは国司の直接指揮ではありませんでした。これを率いたのが、勢陽雑記が引く「伊勢巻」では顕康(顕泰)だったとしています。
伊勢巻に云、正平廿四年九月、美濃の土岐康頼、将軍義満の命を受て勢州へ襲ひ来りければ、國司の男顕康朝臣大将にて、大宮尾張守、阿曾入道、入江式部丞以下五千餘騎馳せ向ひ、刑部の郷に於て合戦ありけるに、土岐の勢打負て、宗徒の者三百人うたれて美濃へ引返しければ、顕康朝臣三重郡の内に諸城を築き給ふて要害とす。櫻村に小林丹後守、山田の城に矢田蔵人入道、楠山の城に諏訪十郎、曾井の城に志村左衛門尉、水澤の城に石川右馬大輔、小山田の城に川島宮内少輔、川尻の城に石川右馬大輔等二百騎三百騎さし分けさし分け楯籠る。扨故の千種忠顕卿の二男千種侍従経顕朝臣を総大将にして禅林寺の城におき、三重郡の成敗をぞさせられける。(勢陽雑記の引く伊勢巻)
現在の地区名など
戦いのあった「刑部(おさかべ)の郷」、三重県内の現在の地名としては津市押加部町(江戸時代は刑部)がありますが、その後三重郡(現在の四日市市周辺)に諸城を築いていることから、刑部神社がある四日市市東坂部町(および西坂部町)周辺だと言われています。「おさかべ」と「さかべ」、音が似てます。
城がある三重郡の地名も、現在の四日市市内に町名として残っています。
櫻村:四日市市桜町
山田:四日市市山田町
楠山:四日市市楠町
曾井:四日市市曽井町
水澤:四日市市水沢(すいざわ)町
小山田:四日市市山田町ほか(施設名等に小山田が残る)
川尻:四日市市川尻町
総大将となった千種経顕が拠点を置いたのは現在の菰野町の禅林寺(禅林寺城)。上記の伊勢巻では「千種忠顕の四男・経顕」が北畠氏によって北勢の棟梁として置かれたように書かれていますが、千種忠顕またはその二男の顕経(太平記の「顕常」?)が自主的に拠点を置いたとも伝わります。この後も、千種氏は同じ菰野に千種城を築き、戦国時代まで北勢四十八家の棟梁として重きをなします*2。若き北畠顕泰が北勢の戦場を駆け回っていた当時の勢力図が、戦国時代、さらには現在の町の配置などにも影響を残しているのでしょう。
Wikipedia先生(2024.01.08閲覧)によると北畠顕泰は1361年頃の出生と推測されています。それが真実であれば元服前の年代。実際にそれより遅い生まれだとしても非常に若い世代での戦闘です。南朝の重鎮・北畠顕能の嫡子顕泰は、南北朝の最前線に身を置いたのでした。
北畠宗家を継ぐ
顕泰の父・顕能には男子が2人ありました。伊勢北畠氏は嫡子の顕泰が継ぎ、もう一人の男子・顕俊は木造(こづくり)氏となります*3。
父・顕能の存命中に家督を継ぎ、1376年、顕泰は伊勢国司に任ぜられます。
その後、正二位、権大納言、右大将に任じられ、南朝での地位を順調に上げていきますが、諸国の武家のほとんどは北朝方となっていました。
1385年時点の吉野周辺の南朝方の氏族は、伊勢国司記略によると以下の通りです。
河内国
楠木・和田・橋本・福塚・宇佐美・神宮寺・八尾
紀伊国
湯浅・山本・恩地・贄川・貴志・野上
大和国
三輪・眞木・宇野・坂部・澤・秋山
今でも地元の人にとっては「わしの名字や」「この名字の知り合いがいる」という氏族名ではないでしょうか。
しかし、北畠顕能が参加した京都奪還(1352年)や、顕泰の祖父である南朝の重鎮・北畠親房の死没(1354年)からも30年以上が経過し、南朝方の劣勢は明らかとなっていました。
そのような中で、伊勢の北畠氏は吉野の東、伊勢国南部周辺を支配していました。
氏族は関・鳥屋尾・水谷・矢野・田上・榊原・愛曾・澤・秋山・服部・川上*4
伊勢北畠氏、まあまあの勢力です。吉野南朝の東の守りとして、北伊勢を支配する武家方・伊勢守護(土岐氏)と対峙していました。
明徳の和約
※ここからは和暦でいきます。
明徳3(1392)年、足利義満による南北朝の合一が成り、形式上、南北朝の争いはなくなります(明徳の和約)。
北畠顕泰は大宮尾張守を吉野へ派遣して和約に反対しますが、意見は容れられませんでした。京都に向かう南朝・後亀山天皇に従わず、伊勢北畠氏を頼って伊勢に来る公卿・武家もあったようです。足利義満が元弘以前のように大覚寺統・持明院統が交互に即位することを約束したことで北畠顕泰の態度も軟化し、和睦に応じました(「伊勢巻」)。
北畠氏に従う氏族の領地も安堵されます。一方、木造氏や関氏など一門衆や地元有力勢力は将軍直轄に組み込まれてしまいます。
明徳4(1393)年正月、北畠顕泰は鈴鹿郡で近江の佐々木氏と戦い、顕泰が勝利を収めます。*5
同年9月、将軍・足利義満が神宮参詣のため伊勢国に入り、北畠顕泰は義満を館に招きます。義満は顕泰の嫡子・親能(ちかよし)に一字を与え満泰と名乗らせ、顕泰の養子・俊泰*6とともに官位につけます。
当初は南北合一に反発していた北畠顕泰も、将軍家と良好な関係を築いていきました。
応永の乱
応永6(1399)年、周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の守護職も兼ねる守護大名・大内義弘が堺で反幕府の兵を挙げます(応永の乱)。
足利義満*7は守護大名に大内義弘の籠る堺を攻めるよう命じ、伊勢の北畠顕泰にも出兵を催促します。
北畠顕泰はこれに応じ、息子・満泰とともに軽騎兵300を率いて参加します。
戦いの様子は「応永記」に詳しいので次に引用します。
「応永記」が記す戦いの様子
大内義弘は堺の町を要塞化し、各所で戦っていた兵も呼び集めて計5,000余騎で籠城します。
対する幕府軍30,000余騎は、このような平城は一気に攻め落とすべきだと意気盛ん。応永6(1399)年11月29日の早朝・卯の刻*8総攻撃を開始します。
少し長いですが応永記*9の文章をそのまま引きます。大内義弘が格好いいので。
管領ノ手二千余騎ニテ北ノ方一二ノ木戸ヲ責破ル 既ニ三ノ木戸ヲ責破ラント天手痛ク戦間遊佐ヲ始メトシテ手負七百人合戦及難儀ケレハ 遊佐手負ケレ共一足モ不退 猶敵ノ中ヘ攻入テ討死セントシケレハ 管領 同子息尾張守 遊佐討死スナトテ懸玉ヘハ 続ク兵七百余騎不惜命責戦テ 懸ツ返シツ マ(捲)クツツマクラレツツ 自卯剋戌ノ刻迄無寸ノ隙戦ケル處ニ 山名右衛佐入道 同民部少輔ヲ始トシテ 一門五百余騎 管領ノ手ニ入換ヘテ散々ニ戦フ
要塞化された堺の町、まず幕府管領の畠山基国が北方から2,000騎で攻めかかります。一の柵、二の柵を打ち破り、さらに三の柵を落とそうと攻撃を続けますが、遊佐(畠山の重臣か)をはじめとして700名が手傷を負います。手勢の三分の一、現代であればほぼ全滅判定でしょう。それでも攻め続ける遊佐を討たすなと畠山基国とその子・畠山満家も戦いに加わり、休む間もなく2時間ほど激闘を繰り返します。
そこに山名時熙*10が手勢500騎を率いて畠山勢と交代、大内勢を攻撃します。
自城中 杉豊後 同備中 野上豊前ヲ始トシテ究竟ノ兵五百余騎切テ出向フ敵ヲ追散ス処ニ 山名民部少輔兄弟二人ハ一足モ不退 敵ノ中ヘエイヤ声ヲ上テ切テ入 是ヲ見テ一門五百余騎民部少輔ヲ不討ト続ヒテ切テ入ケレハ 敵身形乱レ逢フ 先陣被討ヌレハ後陣ノ勢彼死骸共ノ上ヲ乗リ越々々討ツ被討ツ責戦ヒケル處ニ 義弘入道其日ハ白綾綴ノ腹巻ニ年来秘蔵ト聞ヘタル鴾毛の馬*11ニ金覆輪ノ鞍置テソ乗タリケル 冑ヲハ態ト不着シテ下人ニ是ヲ待セタリ
堺の城内からは杉豊後・杉備中・野上豊前ら屈強な兵500余りが打って出て山名勢を迎撃するところに、山名民部少輔兄弟*12がどんどん切り込んでいくので、山名勢500も前へ前へ進みます。文字通り、味方の屍を越えていく凄惨な戦いです。
そこに反乱軍の主将・大内義弘が姿を現します。
そのいでたちといえば、きらびやかな白糸で威した胴丸(鎧)を装備。朱鷺色の白馬にきらびやかな鞍を載せて跨り、兜は被らず入道頭。カッコいい!
其勢僅ニ二百余騎計ニテ四方ノ合戦共ヲ下知シツツ懸廻ケルカ 爰コソ手痛キ合戦ナレトテ二百余騎を合力スル處ニ 伊勢ノ国司北畠源大納言 同子息少将モ其勢三百余騎ニテ山名ト一所ニ成テ彼ノ手ヲ切リ退ケ城中ニ乱入ントテ命ヲ塵芥ヨリモ軽シテ切テ入ケルニ敵手強ク禦ギ戦フ間 北畠少将ヲ始トメ矢庭ニ十余人討死ス 即僮走倚リ少将ノ既ニ討死ノ由ヲ父源大納言ニ告ケレハ自元子ヲモ若黨ヲモ多ク討セテコソ軍ノ功ヲハ可成トテ猶敵ノ中ヘ切テ入テ火出ル程ニ責戦フ
大内義弘は200余騎を連れて各方面の防御陣地に下知して回っていましたが、山名勢の猛攻を見て、此処こそが勝負どころだと200騎で戦う準備をしているところに、我らが伊勢国司・北畠顕泰が登場!
それまで管領だの右衛佐入道だの武骨な名前ばかりだったところに、急に雅な北畠大納言!これも雅な子息・北畠少将とともに300騎を率いて山名勢ととともに城に攻めかかります。
しかし、相手は200騎とはいえ大内義弘の近習の精鋭部隊。北畠勢は激しい抵抗を受け、たちまち10数人が討ち死にします。その戦死者の中には北畠顕泰の息子・少将満泰も含まれていました。郎党が満泰の討死を顕泰に伝えると「もとより子も若党*13も多く討たれるようでないと軍功は挙げられないぞ」と手を緩めることなく、なおも火が出るように戦い続けました。
細河ノ一門 赤松ノ一族 都合其勢五千余騎 南ノ方ヲ破ラント塀鹿垣ニ付テ入替入替責戦フ 六角京極ハ東ノ方ヲ破ラント新介カ手ニ渉リ逢ヒ 不惜命相戦程ニ自卯時至夜半四方ノ合戦ニ討死手負幾千万トモ不知 其数敵味方ノ人馬 気力モ盡ケレハ互ニ本陣ニ引退ク形勢ハ帝釈修羅ノ戦ヒモ角ヤトソ覚ケル
幕府軍は、細川・赤松の計5,000余騎が堺の南*14を、六角・京極の手勢が堺の東を、それぞれ攻め続けます。しかし堺は落ちません。やがて夜半になり、両軍とも気力が尽きてそれぞれの陣に引き上げます。
堺の城は3万の幕府軍の猛攻を防ぎ切りました。
堺の町、大内義弘がいた北の方をまず攻めた畠山氏は幕府管領。それに交替したのは明徳の乱で一族が多く討たれた山名勢。三番手は南朝に忠誠を誓う北畠勢。管領の監視下で、幕府・将軍家に従う証として、犠牲を顧みずに勇戦せざるを得ない面もあったかもしれません。
力攻めを反省した幕府軍は攻城戦の準備を整えたうえで、12月1日、再攻撃をかけます。大内義弘は周防へ落ち延びることを進められますが、自身を項羽になぞらえてこれを拒否。壮絶な戦死を遂げます。
伊勢国司記略の記述
「応永記」では、再攻撃の場面に伊勢国司・北畠顕泰の名は見えません。
「伊勢国司記略」では、満泰が戦死した戦いの後、北畠顕泰がちりぢりになった兵を集めているところに、周辺住民の葬送の列が逃げ去った跡があり、打ち捨てられた食料や装具などで飢えを癒し、天蓋を旗印として、再度攻撃を仕掛けて大内勢に大いに打ち勝った、となっています。
初日の戦いで大きな損害を受けながら、再度兵を整え、12月1日の再攻撃にも加わったのでしょう。
北畠顕泰は伊賀半国と近江甲賀郡を恩賞として受けました。
「伊勢国司秘録」*15では、この戦いの後、伊勢北畠氏は天蓋を馬印としましたが、6代国司・北畠材親の代に被官・星合家に天蓋を譲ったとしています。
楠木宗家をかくまう
応永の乱・大内義弘の軍には楠木正勝(正成の孫)ら楠木一族が参加していました。堺の陥落後、「応永記」では次のように記しています。
楠木二百余騎今迄ハ眼前ノ御敵ニテ今更降参申ン事無益也トテ大和路ニ懸リテ行方不知落失ヌ
楠木勢200余騎は大和方面に逃げ、行方知れずとなったということです。
一方、堺の市城が陥落した際、楠木正勝やその子・正盛(後の正顕)が北畠顕泰に救出され、正勝は負傷がもとで没したが、正盛が北勢四十八家の楠氏(伊勢楠木氏)の祖となったという伝承もあります。
伊勢楠木氏からは後南朝の争乱に参加し討死した者もいますが、争いから身を引き、桑名の刀工・千子村正の弟子として刀工となった者を複数輩出しています。
伊勢楠木氏についてはまた別に記事を書きたいと思います。

終りに
北畠顕泰の没年は定かではありません。斎藤拙堂は「南方紀伝」の説を採り、応永9(1402)年10月に没したと「伊勢国司記略」に記しています。また前述の「伊勢国司秘録」北畠家系図では応永13(1406)年頃に出家し、応永20(1413)年頃に没したとしています。
先代の北畠顕能は南朝の重鎮として北朝・武家方と戦い続ける生涯でしたが、北畠顕泰の代は南北朝の対立から和約への転換期でした。その中で、応永の乱では幕府方の守護大名と並んで武名を挙げ、南朝の象徴である楠木宗家を保護するなど、非常にバランス感覚の良い人物だったと想像します。
嫡子であった満泰(親能)が応永の乱で戦死しているため、その弟の満雅が家督を継ぎました。満雅の代に南朝忠臣としての北畠氏の矜持が大爆発します。
参考文献
斎藤拙堂「伊勢国司記略」(1933・拙堂会発行)
「伊勢国司秘録」(企画展「伊勢国司『北畠氏』230年の足跡」松阪市歴史民俗資料館より(2024.10.26訪問))
「応永記」国立国会図書館デジタルコレクション「群書類従 第461-463冊(巻373下-375)」
*2:江戸時代前期の伊勢国地誌「勢陽雑記」には「千草(或いは千種)村」の項に「千草家一千騎の大将にて、北伊勢の(略・20家の名称)等四十八家の者共も一味同心にて、其中に千草を大将として大方かれに心を合せる。」と記されています。
*3:木造は一志郡の地名(現・津市木造町)で、木造氏はそこに城を築いて本拠としました。木造氏は宗家である伊勢北畠氏と時にはともに協力し、時には反目しあって続きます。戦国時代に出た滝川雄利(きたがわかつとし)は木造氏の出身といわれています。
*4:関氏は伊勢国司記略で最初に「関一党」と記され、関氏に連なる氏族が複数いたと推測されます。後の北勢四十八家に連なる一党でしょう。榊原は一志郡榊原(現・津市榊原町)を拠点とした氏族。古典の日本三名湯・榊原温泉(枕草子の「ななくりの湯」)がある地域を拠点とした、徳川四天王の榊原康政に連なる一族です。愛曾は志摩国の愛曾氏。後に新陰流などにつながる剣術・陰流の始祖・愛洲移香斎を出す氏族です。服部は伊賀国の一領主でしょうか。これらの氏族はこの後も北畠氏の攻防に名が出てきます。
*5:佐々木氏と戦った記録は伊勢国司記略の引く「津久井系図」による。戦った相手を土岐氏とする資料もあるようです。
*6:北畠俊泰:木造顕俊の子・北畠親房の孫で、満泰とは元々いとこ同士。後に木造家を継ぐ。
*7:この時すでに将軍職を息子の義持に譲っていましたが、太政大臣として公武の実験を握っていました。
*8:卯の刻:今でいう午前6時。日の出とともに攻めたのでしょう。
*9:応永記の文は国立国会図書館デジタルコレクション「群書類従 第461-463冊(巻373下-375)」より
*10:山名時熙:やまなときひろ 応仁の乱で有名な山名持豊(山名宗全)の父です。
*11:鴾毛の馬:鴾(偏は「ム」の下に「牛」、つくりが「鳥」)は「つき」と読み、朱鷺(トキ)の仲間またはトキそのものの古名。赤みを帯びた白色の毛並みの馬を指すそうです。
*12:山名時熙の弟たちか息子たち?Wikipedia先生だとその中に「民部少輔」に該当する人物がありませんでした(2024.12.30閲覧)
*13:若黨(若党)若い侍・若い従者
*14:応永記の後の記述に出てきますが、堺の南は厳島神社の神主が守っていたようです。厳島の神主は大内義弘が戦死したのちに降伏します。
*15:元は天正10(1582)年のものを延享4(1747)年に写したものとして旧小津清左衛門家に伝わったとされています。伊勢国司記略の参考文献にその書名は見られませんが「北畠家系図」が該当するかもしれません。