ダイコンオロシ@お絵描き

三重県の郷土史を中心に、時々お絵描き

広禅寺の小女良狐

伊賀上野の城下町、広禅寺という寺に伝わるお話です。

大和国宇多に人の手助けをする源五郎狐がいた。あるとき飛脚に頼まれ文箱を運んでいるとき山中で犬に殺された。伊賀国上野の広禅寺にその妻だと言われる小女郎狐というものがおり、寺の手伝いをしていた。延宝のころのことだがいつの間にかいなくなった。

国際日本文化研究センター 怪異・妖怪伝承データベース

 

この話は、伊賀上野出身の俳人・菊岡米山(1680-1747)が記した日本各地の奇談・会談集「諸国里人談」(寛保3(1743)年)に記されています。

「諸国里人談」の「源五郎狐・小女郎狐」の項です。

まず、伊賀の隣国、大和国宇多(現・奈良県宇陀市)の「源五郎狐」の話から始まります。

 

源五郎

延宝のころ大和国宇多に源五郎狐といふあり。常に百性の家に雇はれて農業をするに、二人三人のわざを勤むによつて民屋これをしたひて招きける。何国より来りいづれへ帰るといふをしらず。或時関東の飛脚に頼まれ、片道十余日の所を往来七八日に帰るにより、そののち度々往来しけるが小夜山中にて犬のために死せり。首にかけたる文箱をその所より大和へ届けけるによりて此事を知れり。

諸国里人談(紀行文集5版・1909)※濁点・句読点は補った

まずは、宇多(現・奈良県宇陀市)の「源五郎狐」の話です。

延宝は江戸時代前期、西暦では1673年から1681年の間の年号です。

現代文に直すと、次のようになるでしょうか。

大和国宇多に源五郎狐という狐が住んでいました。
いつも田や畑を手伝っていましたが、2、3人分働くので、みんな源五郎狐を頼って手伝いをお願いをしていました。

しかし、源五郎狐がどこから来て、どこに帰るのかは誰も知りませんでした。

ある時、関東の飛脚に文の配達を頼まれたところ、片道10日かかる行程を往復7、8日で届けたので、その後、たびたび飛脚として往来するようになりました。

ある夜、山中で野犬(狼)に襲われ、源五郎狐は死にました。

首にかけていた文箱が、大和に届けられたことでそのことが分かったのです。

原文には人の姿であったとは明記されていませんが、人の姿で働いていたのでしょう。

飛脚を頼まれた時、人目につかない山中を狐の姿で疾走し、人間では往復20日かかるところを7,8日で帰ることができたのでしょう。

ある時、狼に襲われ、山で死んでいる狐が首に文箱をかけていたので、源五郎が狐だったということが分かったのです。

 

小女郎狐

諸国里人談は、続けて伊賀の小女郎狐について述べます。

又同し頃、伊賀国上野の廣禪寺といふ曹洞宗の寺に小女郎狐といふあり。源五郎狐か妻なるよし誰いふとなくいひあへり。常に十ニ三はかりの小女の兒(たち)にて庫裏にあって世事を手伝ひ、ある時は野菜を求めに門前に来る。町の者共此小女狐なることをかねて知る所なり。晝中に豆腐などととのへ帰るに童どもあつまりてこぢよろこぢよろとはやしけるに、ふり向て莞爾(ほほえみ)、あへてとりあへず。かくある事四五年を経たり。其後行方知らず。

諸国里人談(紀行文集5版・1909)※濁点・句読点は補った

小女郎狐(イメージ)

源五郎狐と同じ時期、伊賀上野の広禅寺に小女郎狐がいました。

誰が言い出したかは分かりませんが、小女郎狐は源五郎狐の妻だと町の人々は言いあっていました。

いつも数え12、3歳の少女の姿で、広禅寺の居間や台所を手伝い、時々野菜を買いに門前町に出てきました。

昼間、豆腐などを買いそろえて帰る所に、子どもたちが集まって「小女郎、小女郎」とはやし立てても、振り返って微笑むだけでした。

このようなことが4、5年続いた後、いつのまにか小女郎狐はいなくなり、行方は誰もしりませんでした。

 

伊賀上野の広禅寺では、宇多の源五郎狐の妻と噂される小女郎狐が働いており、いつの間にかいなくなっていた、という伝承です。

源五郎狐の話が伝わる宇多、今の奈良県宇陀市は、三重県名張市と県境で接しています。伊賀市はその名張市の北。今の伊賀市名張市で旧伊賀国を形成していました。

人に化けた狐が人々に頼りにされていた、という話が、大和国伊賀国、山を挟んで伝わっていたということになります。

 

もうひとつの結末

三重県サイト内の「ふるさとの届けもの 伝えたい三重のおはなし」に掲載される「上野市 こじょろうぎつね」の結末は、別のものとなっています。

 

昔々、伊賀上野の城下町にある広禅寺。

寺では月に1回檀家の人たちが集まり、住職の法話を聞いたり、御馳走を食べたりしていました。

あるとき、寺に十二、三歳の女の子がやって来て、法話の集まりの台所仕事を手伝うようになりました。

人々は彼女を小女良(こじょろう)と呼びました。

かすりの着物に赤いたすきと前掛けをしてきりきり働く小女良。

大人たちは「よく働く子だ」と感心し、子どもたちも「小女良、小女良」となついていました。

小女良は、法話の集まりが終わると残った御馳走をもってうれしそうに帰っていきました。

どこから来たの?と聞くと、小女良は上野の町の西、長田の山からと答えました。

**

ある日、集まりの御馳走に稲荷寿司をだそうと、寺の者が朝から油揚げを炊いていていました。

昼前に油揚げにご飯をつめていなり寿司を作ろうとしたところ、油揚げの数が足りません。

誰かが食べたんだろう、住職が小女良にも問いただしたところ、つい油揚げをつまみ食いしてしまったことを認めました。

泣きながら誤る小女良。

しかし、住職はこれが癖になってはいけないと思い、小女良を強く叱りました。

怒られた小女良は、泣きながら寺を飛び出してしまいました。

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小女良は鍵屋の辻(城下町の西の交差点)をこえて、田んぼの中の道を走りました。

強く叱りすぎたかと思った住職も、そのあとを追いかけます。

長田の橋を渡るころには、赤い前垂れをはずして、大きな茶色いしっぽが見え、走る姿も狐のようになっていました。

小女良は長田の山に住む狐だったのです。

住職は小女良を見失ってしまいました。

**

長田の山に銃声が響き渡りました。

住職が銃声がした方に行くと、果たして、猟師が一匹の狐を仕留めていました。

小女良に化けていた狐でした。

住職は寺に小女良を葬り、小さな塚を立てて手厚く弔ったということです。

三重県サイトテキストを基に記述)

こちらでは、小女郎狐は最後に狐だとバレたことになります。

住職に強く怒られた小女郎狐は寺を飛び出し、悲劇的な最期を遂げます。

 

まとめ

上野徳居町・広禅寺サイトの小女郎狐も、三重県サイトと同様に悲劇的な最期をむかえます。

広禅寺には小女良稲荷として今も大切に祀られているとのことです。

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参考文献等

国際日本文化研究センター「怪異・妖怪伝承データベース 3880033

「紀行文集 5版 (続帝国文庫 ; 第20編)」 博文館編輯局 編 [他] 博文館 1909

Wikipedia 「諸国里人談」、「菊岡沾涼」(ともに2025.05.27閲覧)

三重県サイト内「上野市 こじょろうぎつね」(2025.05.28閲覧)

広禅寺サイト「伊賀の民話”こじょろうぎつね”のほこら」(2025.05.28閲覧)

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