2024年9月16日の記事で触れた「立烏帽子/鈴鹿御前」について、国立国会図書館デジタルコレクションなどから出典などを調べ、並べました。
(資料整理の性質が強く、読み物としては作成していません。すみません。)
※2024年12月9日:「鈴鹿の草子」一部修正・追記
「立烏帽子」の名
平康頼「宝物集」(治承年間1177-1181)
平康頼が記した「宝物集」(ほうぶつしゅう)が「鈴鹿山の盗賊・立烏帽子」の初出とされています。奈良坂の金礫(かなつぶて)、日高禅師*1、海の羊ミ?といった盗賊・海賊と名前が並べられ、やがて罰を受けたということになっています。
コノ世ニモ ナラサカノカナツフテ スゝカ山ノタチエホウシナト 申物侍ケリ ヒタカノ禅師 海ノ羊三ナト申ケルヌスヒトゝモ イツレカツヒニヨクテ侍ル 手キラレ クヒキラレ ヒトヤニヰテ カナシキメヲノミコソハ ミナミル事ニテ侍メレ
宝物集は複数の版があり、国立国会図書館デジタルコレクションでも立烏帽子がヒットしない「宝物集」もありますが、平康頼の自筆草稿だともいわれる宮内庁書陵部蔵の「寶物集」には上記文言があります。*2
後世の加筆などではなく、平安末期を生きた平康頼自身が「鈴鹿山の立烏帽子」という盗賊の名を知っていたということになります。
保元物語(13世紀前半?)
鎌倉時代に成立したとされる軍記物語「保元物語」に「立烏帽子を捕らえた武士の孫」が登場します。
是ハ安芸守殿ノ御内ニ伊賀国ノ住人、山田小三郎是行、生年廿八、指セル人数ニハ候ハネ共、昔鈴鹿山ノ立烏帽子ヲ搦テ、帝王ニ奉シ山田庄司行季ガ孫也。
保元元年(1156年)で数え28歳の侍・山田是行の祖父・山田行季。1世代25年とすれば1100年代前半に鈴鹿山の盗賊・立烏帽子は捕縛されたことになります。宝物集を書いた平康頼が名前を伝え聞いていてもおかしくない。
保元物語も複数の版が伝わっており、立烏帽子の代わりに「伊勢国鈴鹿山の強盗の張本 小野七郎」となっているもの、立烏帽子も小野七郎も名が出てこないものなどがあります。
鈴鹿山の女盗賊
古今著聞集(1254年頃)
橘成季が編纂した説話集「古今著聞集」に、昔、鈴鹿峠に女盗賊がいたことにふれられています。
白川の屋敷に押し入った強盗団。負傷した首領の血の跡を辿ると、検非違使別当・藤原隆房(1148-1209)の館に仕える女官だったとのこと。年は27,8歳、容姿も欠点のない優美な女官だったので、連行される様子を見た人々はみな驚いた、という説話。
その説話は次の言葉で締めくくられています。
むかしこそ鈴香山の女盗人とていひ傳へたるに、近き世にも、かかるふしぎ侍りけることにこそ
「近き世」は藤原隆房の生きた平安末期。*3
すると「むかしこそ」はそれよりも前。
橘成季は伊賀守であり(じっさいに赴任したかはともかく)鈴鹿峠に近い伊賀からの情報・伝承は詳しく入っていたと思われます。
太平記(1370以降)
鎌倉末期から南北朝時代の争乱を描く軍記物語「太平記」巻第三十二に、名刀「鬼切」の説明として次のように記されています。
依之其名を鬼切と云なり。此太刀は、伯耆国会見郡に大原五郎太夫安綱と云鍜冶、一心清浄の誠を至し、きたひ出したる剣也。時の武将田村の将軍に是を奉る。此は鈴鹿の御前、田村将軍と、鈴鹿山にて剣合の剣是也。
ここで「鈴鹿の御前」という名前が出てきました。「御前」は女性を指しており、田村の将軍(坂上田村麻呂または田村語りの坂上田村丸か)と戦う=山賊(鈴香山の女盗人)という構図となってきました。
柳田國男「立烏帽子考」(1928)
鈴鹿峠の盗賊「立烏帽子」や「鈴香山の女盗人」の伝承について、柳田國男が「立烏帽子考」の中で触れています。
立烏帽子といふ珍しい女賊の名は、何時からともはつきりせぬが、随分久しい間世人に知られて居た(五)。伊勢の鈴鹿山に立て籠って、又鈴鹿御前とも呼ばれ、奥州の魔神阿黒王の妻であり、自身の亦恐るべき妖女であつた。それが後には阪上田村五郎と契つて、手引きをして阿黒王を攻め滅さしめたといふのが、此物語の最も普通の甲地であつて、因幡の西日天王の至つて異様なる鬼退治も、骨子に於ては是と一つである。
↓注釈(五)
(五)例へば参考保元物語白河殿夜討の條、京師本と杉本本には伊賀國の住人山田小三郎が先祖の山田庄司の武功を述べて、「鈴鹿山の立烏帽子を搦め捕りて帝王の見参に入れたりし云々」と謂つて居る(鎌倉時代文學史)。又古今著聞集巻一二偸盗篇も、「昔こそ鈴鹿山の女盗賊とていひ傳へたるに云々」とあつて、あの頃はもう評判になつて居たのである。
室町時代の旅行記に見える「立烏帽子」「鈴鹿姫」
室町殿伊勢参宮記(旅行は1414年)
足利義持の伊勢神宮参拝(1414年)に随行した人物の日記。著者は花山院長親または飛鳥井雅縁とされています。
鈴鹿姫と申す小社の前に、人々祓いなどし侍るなれば、しばし立よりて、心の中の法楽ばかりに、彼たてゑぼしの名石の根本ふしぎにおぼえ侍て、すずかひめもおもき罪をばあらためてかたみの石も神となるめり
耕雲紀行(旅行は1418年)
同じく、足利義持の伊勢神宮参拝(1418年)に随行した花山院長親(耕雲)が記した紀行文です。鈴鹿御前(鈴鹿姫)が主であり、立烏帽子は彼女が被ったものが奇岩となって残る、というストーリーになっています。
これより、この山のうち、はるばるとわけ行くに、昔、鈴鹿姫勇力に誇りて、この国を煩(わづら)わしき。
田村丸に勅して、誅罰せられしに、鈴鹿姫軍(いくさ)敗れて、着たりける立烏帽子を山に投げ上げける、石となりて今もあり。麓(ふもと)に社を建てて、巫女などこれを祭るなり。
室町時代の中頃には「田村将軍」「田村丸」と戦う「鈴鹿の御前」「鈴鹿姫」として伝わっていたことが分かります。「立烏帽子」は鈴鹿御前の別名ではなく、被っていた立烏帽子が奇岩となって鈴鹿峠に残った、という話です。
地元の馬子が、鈴鹿峠を越えるときの話として「あそこに見える岩は…」というように語ったのでしょう。
田村語り
田村丸・田村将軍と鈴鹿御前との物語は、室町時代の後半には、現代に伝わる形で語られます。
壬生家文書(1486年)
毛利少輔大郎に宛てた細川政元の書状、その裏文書(裏面に書かれた文章)が「田村すゝか乃物語」に関するものとなっており、wikipedia「鈴鹿の物語」(2024.11.30閲覧)でも、「鈴鹿の草子」成立時期を推測する資料として記載されています。
表の文書の日付が1486年なので、その年から数年程度の間にメモされたものでしょう。
坂上田村麻呂伝勘文案
田村すゝか乃物語に
一、利重の子利祐、利祐の子日りやう殿云々、
一、日りやう殿十六の年、将軍宣旨をかうふりて利仁将軍とそ申ける云々、
一、日りやう殿の子いなせの五郎、坂上利宗なのる、利宗十六の年将軍宣旨をかうふりて田村将軍とそ申ける云々
此条々引勘に
延暦十六年十一月為将軍、
藤原利成
延喜五年正月十一日為鎮守府将軍、
延暦十六年より延喜五年まて百余年なり候とて、田村丸ハ前輩也、利仁ハ後人也、又異姓也、以外相違たる欤、
一、関白ミつたかをもつて申されけれハ云々
ミつたか関白の御名二あらす、
一、利重、利祐ハ伝記二みえす、
坂上田村麻呂のが将軍になったのが延暦十六年で、藤原利仁が将軍になったのが延喜五年で、100年くらい間が空いていて、利仁将軍の子が田村将軍だけど藤原利仁は田村麻呂より後の人で、姓も違うし…
物語のファンがメモったんでしょうかね。
田村の草子(室町時代後半)*4
田村将軍・俊宗が主人公となる「田村の草子」の後半。鈴鹿山に住む鬼神・大嶽丸の討伐にてこずる俊宗を助ける女神として鈴鹿御前が登場します。
又此山かげに天女あま下りておはします。名をばすゝか御前と申しける。*5
鬼・大嶽丸は鈴鹿御前にベタ惚れで、俊宗も一度姿を見た鈴鹿御前を忘れられず、大嶽丸討伐のことはどうでもよくなってしまうなど、大変な魅力を持つ女神として描かれています。
鈴鹿御前の姿は次ように形容されています。
年の程二八ばかりなる女 玉のかんざしに 金銀のやうらくをかけ、からにしきのすいかんに くれなゐのはかまふみしたきて、
16歳*6くらい、玉のかんざし、金銀の瓔珞(仏像などに見られる装身具)、唐衣の水干(狩衣(かりぎぬ)に似た平安時代の男子の装束)、紅の袴という姿でした。
鈴鹿御前は俊宗と夫婦になり、大嶽丸を討つ手助けをします。
童子に化けて鈴鹿御前に近づく大嶽丸。鈴鹿御前は大嶽丸の求愛にこたえるふりをして、言葉巧みに大嶽丸を守る剣「大通連(だいとうれん)」「小通連(しょうとうれん)」を預かります。剣を失った大嶽丸は俊宗に討たれる、というあらすじです。
俊宗と鈴鹿御前はしばらく夫婦として暮らし、娘「しょうりん」を授かります。
「田村の草子」の物語は、次のように田村将軍・俊宗は観音の化身、鈴鹿御前は竹生島の弁財天だとして、観音様をしんじましょう、と結ばれています。
さてもこの大しゃうぐんは、くはんをんのけしんいてましませば、しゆじやうさいどのはうべんに、かりに人間とあらはれ給ふ。又すゝか御ぜんは、ちくぶしまのべんざい天女なるか、あつきじやしんをたすけ、ぶつどうに入給ふべきとて、さまゝゝにへんげ給ふも、御じふひかきことなり
なお、「田村の草子」には「立烏帽子」という名は出てきません。
鈴鹿の草子(室町時代後半)*7
「田村の草子」の別バージョンとして紹介されることのある「鈴鹿の草子」。こちらのほうがより鈴鹿御前の「萌え」「ツンデレ」が高いようですので、少々長いですが田村殿と鈴鹿御前の出会いの場面を紹介します。
田村殿・俊宗が鈴鹿の賊を討つよう命じられるのは「田村の草子」と変わりませんが、こちらでは「立烏帽子」が鈴鹿の賊となっています。
又有時、御かとより、せんしなるやうは、いせのくに、すゝか山といふところに、たてゑほしきて、めにもみゑすして、ふしきのものあり 御かとゑまいる物をとゝめ、らうせきをいたす、これをうつへきよし、おほせくたさる
帝が言うには、伊勢国の鈴鹿山に立烏帽子をかぶった目に見えない不思議な者がいる。帝への献上物を奪い狼藉を働いている。これを討てとのこと。
「田村の草子」と同様に、鈴鹿の賊を見つけられない俊宗は兵を都に返し、鈴鹿山に一人とどまります。三年ほど経たある時、俊宗が身を清め神仏に願うと、今まで行けなかった「こまつ原」にたどり着きます。その中に池があり、その中に極楽浄土のような島が浮かんでいました。島は春夏秋冬を備えた不思議な空間でした。島に建つ屋敷の中をのぞくと…
さて、うちを御らんすれは、としの程、十七八はかりなる女房の、あたりもかゝやくはかり、この世の人にも、みゑさりけり
数え17、18歳ほどの天女のような女性が見えました。「田村の草子」と同様に、俊宗はこの女性に心を奪われます。
たむら殿、これを御らんして、としむねは、いかなるつみの、むくいにて、かやうの、うつくしきにうはうを、かたきにわもつ、身となるらん
何の因果でこんな美しい女性と敵どうしにならにゃならんのだ!メロメロです。
何とかお近づきになりたい俊宗。ここで女房の名が「鈴鹿御前」になります。
さるほとに、田むら殿、おほしめしやう、こゝろよはくてあしかりなんと、おほしめし、すゝか御せんの、こゝろをみんとや、おほしめしけん、つるきをぬきて、すゝか御せんの、御くしのうへに、なけたまゑは、
立烏帽子に近づきたい俊宗。室内の床に流れる鈴鹿御前の長い髪の上に、刀をぽいっと放り投げます。すると、立烏帽子こと鈴鹿御前は少しも慌てず、いつのまにか傍らにあった琴を弾き鳴らし、武装した姿に変身します。
おとにきこゆる、たてゑほしに、こんりんしやうの、ひたたれに、御よろい、たかひほつよく、しめたまひて、さんたいくけんの、こてをさし、しゃうらんひれいの、すねあてに、ちけんとうみやうの御かたな、三尺一寸の、いかものつくりの、たちをぬき
立烏帽子を被り、直垂・鎧を着て、籠手・脛当てを装着し、太刀をはき…、「田村の草子」の鈴鹿御前と異なり、完全武装です。
そして鈴鹿御前も三尺一寸(約94cm)の剣を投げると、田村殿俊宗の投げた剣と斬りあいになります。俊宗の剣は鈴鹿御前の剣に負けて、黄金のネズミになって逃げようとしたり、異能力バトルが続きます。
鈴鹿御前が田村殿をあおります。
「私の姿は人の目には映らないが、神仏に願って私が見えるようだな!それほど私を見たいか…ならばよく見るがいい!
私を討って帝に気に入られようとしているようだが、私は3つの剣を使う、お前には私は討てない。大通連(だいとうれん)の剣でお前の首をはねることはたやすいこと。だが、お前を討つまでもないだろう、都に帰りな」
俊宗は言います。
「私は都へは帰れない。それに、どうして私の心の内をしったのだ?」*8
鈴鹿御前は笑って、
「お前の心の内はよおくわかっている。私の姿を見て惚れたんだろ。どんな因果でこんな美女と敵対せにゃならんのだとも思っただろ。でも、私を討って名を後世に残したいとも思っただろ。しかし(神通力でい見たところ)、お前、この世にもあの世にも結婚の相手がいなんだな。…」*9
などと細々ネチネチあおり倒します。
その後、田村殿・俊宗は鈴鹿御前との戦いをやめて、ともに暮らすことになります。
以下、「田村の草子」と同様、俊宗は日本各所の鬼退治、鈴鹿御前がそれに力を貸すというストーリーが続きます。*10
「鈴鹿の草子」は姫君(しやうりう)が長く鈴鹿の主と言われていたことを述べて、鈴鹿の神にお参りしましょうね、と物語を終えています。
奈良絵本「すゝか」
室町時代の後半から江戸時代にかけて流行した絵物語「奈良絵本」の「すゝか(鈴鹿)」には、田村の草紙と同様の鬼退治が記されています。
又すゝかのたてゑほしは、すゝかのこんけんといはゝれて、とうかいたうのしゆこ神となり、ゆきゝのたひ人の身にかはりてまもり給ふ
ここでは鈴鹿御前が神となっています。
奥浄瑠璃・田村三代記
戦国時代の天正年間に起源をもつという奥州(東北地方)の語り物語「奥浄瑠璃」。その演目「田村三代記」では、「鈴鹿の草子」と同様に討伐対象としての「立烏帽子」として登場します。
「鈴鹿の草子」では天女だった鈴鹿御前は、ここでは「天竺第四魔王の娘・立烏帽子」となります。
年の頃二八ばかりの上臈の姿は楊柳の如くにて、装束は十二単衣をしきしやうて濃き紅の袴にて裾をとめ、弓手には纐纈の袋に琴を入れて立居かる、馬手の方には三振の剣を置かれたり、その身は瑠璃の卓に倚り懸り学文なして居たりける
「年の頃二八ばかり」は前述「田村の草子」と同じ。2×8=16歳ごろです。
「鈴鹿の草子」とは違い鈴鹿御前立烏帽子は変身しませんが、投げ合った剣どうしが切りあった後、田村将軍と夫婦になります。
田村将軍は死後・鈴鹿山の田村大明神に、立烏帽子(体は生まれ変わって「小松の前」)は死後、鈴鹿山の清瀧権現になり、2人の娘の正林は死後、南部岩手郡の正林寺の地蔵菩薩になります。東北の語りだけあって、ご当地の信仰と紐づいています。
江戸時代の旅行記・地誌など
江戸時代に入っても、鈴鹿御前(立烏帽子)の物語は人々を惹きつけます。
林道春「丙辰紀行」(旅行は1616)
江戸初期の儒学者・林羅山(林道春)が元和2(1616)年に江戸から京都に旅行した際の記録です。鈴鹿の項で次のように記録しています。
関の地蔵より、鈴鹿の坂の下まて、あまたの河あり。八十瀬の河とは是なり。爰(ここ)にまします明神。是天武天皇の行き逢ひ給へる、老人にて侍らん。世の婦人小人の口遊(くちずさ)める、鈴鹿御前の物語とやらむは、おぼつかなし。…
後半、世間の女性や子どもが口ずさんでいる「鈴鹿御前の物語」については、はっきりしなかった、ということです。おそらく鈴鹿峠を越える前に林羅山が宿泊した関(または坂下)で、他の伝承と合わせて地元民に聞き取りをしたのでしょう。
林羅山は女性・子どもに人気の物語についても、鈴鹿に寄ったんだからと調査しており、お堅いイメージの儒学者(失礼!)とは異なる好奇心を持った学究であったかもしれません。
引用の前半は関の明神についての記載です。後に津藩奉行・山中為綱が「勢陽雑記」で
斯のごとくなれば、老翁の女子は鈴鹿御前ならんか(勢陽雑記)
と「この老人の娘が鈴鹿御前としてまつられているのでは?」という自説を述べています。*11
山中為綱「勢陽雑記」(1656)
津・藤堂藩の山中為綱が記した伊勢国の地誌で、明暦2(1656)年成立とされます*12。
鈴鹿郡の項に次のように紹介されています。
一 鈴鹿御前 いかなる神をまつりしぞや、俗説殊に多し。社前に谷川あり。欝然たる林岳よりながれ落つ。
鈴鹿御前という神の社があったということです。坂下の社についての記載だと思われます。
鈴鹿御前を最初の斎王・倭姫の信仰と関係があるとする記事もありますが、山中為綱も「天照大神の乙姫」という説を紹介しています。
また「或説に云ふ、」として、「田村の草子」「鈴鹿の草子」とよく似た物語を簡単に引用しています。
引用される物語では、立烏帽子に心を奪われた利成が恋文を括り付けた矢を射て、それに立烏帽子が応じる、という流れです。
其化生女を鈴鹿御前とまつり、利成を田村堂にまつりけるとかや。
前述の社に祭られる鈴鹿御前は、利成と夫婦となった立烏帽子だという説で、田村将軍の話を終えています。
***
江戸時代、「田村の草子」「鈴鹿の草子」のストーリーで民衆に親しまれ、明治に入っても「新編御伽草子」(1901)や「日本神話物語」(1911)に「立烏帽子」の項がたてられるなど「立烏帽子/鈴鹿御前」の物語は人々の間に生き続けました。
宮崎駿監督は、映画「もののけ姫」のメインキャラクター「エボシ御前」のモチーフのひとつは「立烏帽子」だったとしています。*13
山田章博の「BEAST of EAST」でも魔剣・大通連を使う鈴鹿山の「立烏帽子」が主人公の仲間として登場します。
3振りの魔剣、大通連・小通連・顕明連を操る美しい天女かつ魔王の娘、立烏帽子/鈴鹿御前。マンガ・アニメ・ゲームで様々な創作キャラに命が吹き込まれる令和の世にこそ求められる存在なのではないでしょうか。
なお、ウィキペディア「鈴鹿御前」の項(2024.11.30閲覧)では「鈴鹿御前が登場する作品」として次のように列記されています。*14
ロックバンド「Kagrra」のアルバム『[gozen]』
『桃太郎伝説』シリーズ
『ONI零~復活』武器・大通連を持つ「鈴鹿」
『Fate』シリーズ・初出は漫画『Fate/EXTRA CCC FoxTail』
『式姫Project』
『仁王2』DLC第三弾「太初の侍秘史」鈴鹿御前・立烏帽子が別で登場
『鬼切丸』
『薄桜鬼』 千姫(鈴鹿御前の末裔)
『ペルソナ4』 - 里中千枝の覚醒後ペルソナ『スズカゴンゲン』
『東京放課後サモナーズ』のスズカ
『神咒神威神楽』(light)-メインヒロイン 「久雅竜胆鈴鹿」
***
参考文献等
小川絢子 「鈴鹿における「場所の経験」の歴史地理」
https://lab.kuas.ac.jp/~jinbungakkai/pdf/2019/h2019_01.pdf
稲田利徳「『耕雲紀行』注釈(2)」(1997)
https://core.ac.uk/download/pdf/12546707.pdf
山中為綱「勢陽雑記」三重県郷土史料叢書第13集 三重県郷土資料刊行会(1968)
国立国会図書館デジタルコレクション
・横山重, 太田武夫 校訂「室町時代物語集第1」井上書房(1962)
・柳田國男「立烏帽子考」(定本柳田國男全集第12巻・筑摩書房・1981)
・飛鳥井雅緑「室町殿伊勢参宮記」(改定史籍集覧 第12冊 (別記類 第1)・臨川書店・1984)
・山岸徳平, 高橋貞一 編著「半井本保元物語と研究」未刊国文資料刊行会(1959)
・正宗敦夫編「日本古典全集 保元物語 平治物語 承久記」日本古典全集刊行会(1928)
・「日本文学大系 : 校註 第14巻」国民図書(1925)
・小倉博 編「田村三代記 : 御国浄瑠璃」仙台郷土研究会出版部(1940)
・「日本文学大系 : 校註 第7巻 新訂版」風間書房(1955)
・横山重, 松本隆信 編「室町時代物語大成 第9 」角川書店(1981)
・福田秀一, プルチョウ・ヘルベルト 編著「日本紀行文学便覧 : 紀行文学から見た日本人の旅の足跡」武蔵野書院(1975)
・横山重, 松本隆信 編「室町時代物語大成」角川書店(第7・1979、第9・1981)
・「壬生家文書 2 (図書寮叢刊)」宮内庁書陵部(1980)
・生田目経徳 編「名家紀行集」東京図書出版(1899)
・林道春「本朝神社考」 改造社(1942)
国書データベース
・宝物集・伝平康頼自筆(画像ファイル)
*2:国書データベース(ID:100231766)の画像64枚目で「スゝカ山ノタチエホウシ」部分が確認できます。
*3:wikipedia「鈴鹿御前」(2024.11.19閲覧)によれば、藤原隆房が検非違使別当であった時期は1183年から1191年とのこと。
*5:「山かげ」は鈴鹿峠を東へ下った坂下(東海道五十三次の坂下宿)でしょう。坂下には鈴鹿姫を祭っていたとされる片山神社もあります。
*6:原文「二八」。2×8=16
*7:鈴鹿の草子・慶應義塾図書館蔵・室町後期・永正大永の頃(1500年代初頭)の古写本としてよさそうな古本・(室町時代物語大成第7・鈴鹿の草子(古写本))
*8:原文「としむねか、こゝろの、うちをは、いかてしりたもふへき」:いかで~べしで「いかで」の疑問形かなと
*9:原文「三せんせかいを、みるに、御身に、あひたもふべきちきりなしと、こまこまと、のたまへば」
江戸時代前期(寛文~元禄ごろ)の写本(天理図書館蔵)だともう少し詳しく「あなたには夫婦となるべき女房はいない。私にもいない。陸奥の大嶽丸が恋文をよこしたが返事はしていない。…あなたが7歳で都に来られた時、一目で私の夫になる人だと思った…」というように詳しく書かれています。
*10:「田村の草子」で「しやうりん(しょうりん)」だった二人の間の子は「しやうりう(しょうりゅう)」です。
*11:老人は林羅山「本朝神社考」の「鈴鹿翁・不破長者」の鈴鹿の老翁だと思われますが、神社考では「不破の長者」(不破の関(関ヶ原)の長者)も登場します。鈴鹿の老翁にも不破の長者にも娘がおり、不破の長者の娘は大海人皇子との間に「三子」をもうけます。そして「鈴鹿翁・不破長者」の項は「其の長者は今の関の明神なり」としていて、翁と長者がごっちゃになっている(書き写しの際に誤ったか?)。長者の娘が産んだ「三子」も、3人の子ではなく鈴鹿山(三子山)であれば、天武天皇の子が鈴鹿峠の神々であるということになります。どこかで翁と長者のエピソードが反対になったのではないでようか。
*12:明暦元年乙未にできた初稿は「神風記」と題された簡素なもので、それから追記して明暦2年丙申に七冊本「勢陽雑記」となりました(「勢陽雑記」(1968)の「『勢陽雑記』校訂の序」より)
*13:情報源である書籍「折り返し点」はまだ読んでいません。すみません。
*14:個々の内容は見ていません。