ダイコンオロシ@お絵描き

三重県の郷土史を中心に、時々お絵描き

玉井清太郎・藤一郎 四日市が生んだ航空パイオニア

四日市市立博物館の特集展示「四日市の生んだ『日本のライト兄弟』玉井兄弟展」(令和7年3月1日~5月6日)を見てきた覚えです。

www.chunichi.co.jp

 

※以下「展示より」とした写真はいずれも同展展示を撮影したものです。

玉井清太郎・藤一郎の兄弟(イメージ)

玉井兄弟のプロフィール

兄・清太郎と弟・藤一郎の玉井兄弟。

航空黎明期、日本における先駆者の2人です。

彼らの経歴を展示パネルは次のように説明しています。

玉井清太郎

明治25年(1892)年6月11日、三重郡四日市浜田(現在の四日市市諏訪栄町)で製紙機械製造業を営んでいた玉井常太郎の長男として生まれる。四日市市立高等小学校高等科卒。明治41年に竹トンボが飛んでいるのを見て飛行機制作を志し、弟、藤一郎と共に玉井式飛行機の製作を始める。途中、召集による3年間の兵役につくが、除隊後製作を再開。失敗を重ねるも、大正5年(1916)年11月、3機目にしてようやく初飛行に成功。同年、東京羽田に日本飛行学校を設立したが、大正6年5月20日、NFS3号機で3回目の飛行中、芝浦埋め立て地上空30mで主翼が折れて墜落、死亡する(享年26歳)。

展示より

玉井清太郎(展示より)

玉井藤一郎

明治27年(1894)年9月6日、三重郡四日市町浜田で玉井常太郎の次男として生まれる。兄・清太郎の影響を受け、飛行機作りを手伝う。兄が墜落事故で死亡した後も飛行機作りを続けるが、大正6年(1917)の台風で日本飛行学校が休校したため、翌7年、独立して羽田飛行機研究所を設立。野島銀蔵より飛行家として認められ、名を照高と改めて、飛行機制作と飛行家の養成を行う。大正10年12月、羽田から横浜の生麦に移転。玉井飛行場を造り、宣伝飛行や練習生の訓練を行うが、大正12年関東大震災で飛行場に亀裂が入ったのを機に、借りていた土地を返還し、飛行家を引退。船舶エンジンの販売修理を生業とし、昭和53年(1978)2月11日、85歳で死去。

展示より

玉井藤一郎(玉井照高)(展示より)

兄・清太郎は航空機の設計・製造・操縦をこなす航空パイオニア

日本初の民間操縦士養成所の設立に関わり、唯一の教官となりました。

飛行機事故により、数え26歳(満24歳)で他界しました。

 

弟・藤一郎は兄を手伝い、兄の生前から飛行家・野島銀蔵(後述)の弟子となって、飛行機製造・整備などを学びました。

兄の死後、遺志を継いで航空機製造や操縦士養成に努めました。

 

次に示す年表のように、日本初の飛行でもなく、日本初の国産機の飛行でもない玉井兄弟ですが、羽田空港の礎となった学校の設立をはじめ、航空黎明期に果たした役割は計り知れないものがあります。

 

玉井兄弟と航空黎明期の年表

1903年12月17日 ライト兄弟による人類初飛行

1909年07月25日 ルイ・ブレリオによるドーバー海峡横断飛行(固定翼機初)

1910年日付不詳 清太郎(18歳)、実物大模型を小学校で披露

1910年12月19日 徳川好敏大尉、日本初の公式動力飛行に成功

1911年05月05日 奈良原三次、国産飛行機初の飛行に成功

1911年日付不詳 清太郎、上京して徳川好敏大尉に対面

1912年10月??日 清太郎、玉井式1号機を完成するが飛行できず

1916年08月05日 清太郎、玉井式2号機で伊勢湾横断飛行を試みるが飛行できず

1916年10月05日 清太郎、三本葭で玉井式2号機で初飛行に成功*1

         実業家・相羽有とともに日本飛行学校(NFS)を設立

1917年05月20日 清太郎、NFS3号機での飛行中に墜落、死亡(満24歳)

1918年02月01日 藤一郎羽田飛行機研究所を設立

1919年10月09日 藤一郎四日市上空で兄の追善飛行を行う

1923年09月??日 藤一郎、飛行場の土地を返還し飛行家を引退

※Wikipedhia及び展示より(差異がある場合は展示を優先)

 

玉井清太郎は、ライト兄弟が「ライトフライヤー号」で初の動力飛行に成功した1903年から13年後の自作の飛行機で飛行に成功しました。

途中、清太郎は3年の軍隊招集もありましたが、飛行に成功した日本初の飛行機・奈良原式2号飛行機から5年後、自作での飛行機設計・製造と飛行に成功したのです。

NFS2号機模型(展示より)

展示内容の記録

以下、覚として展示内容などを記録していきます。

実物大模型を披露する玉井清太郎
展示写真を模写

パネル展示・NFS3号機(展示より)

パネル展示・日本飛行学校関係(展示より)

パネル・模型展示・日本飛行学校関係(展示より)

パネル展示・玉井兄弟の生家(展示より)

玉井兄弟の生家は製糸機械を製造する町工場でした。

展示の写真(1923)には「諸機械製造 玉井商店」前にオートバイが並んでいます。

兄弟の父・常太郎が飛行機への夢を認めたことが、玉井兄弟の偉業につながりました。

玉井清太郎の遺品(展示より)

 

清太郎の遺品の時計は、清太郎機が墜落した9時半過ぎで止まっています。

プロペラ展示・TAMAIの字(展示より)

 

NFS2号のプロペラなど(展示より)

 

兄・清太郎事故死現場と葬儀の記録(展示より)

 

玉井清太郎の経歴(展示より)

展示では詳しく触れられていませんでしたが、藤一郎が弟子入りした飛行家・野島銀蔵も三重県出身(今の津市一身田)で、最初期の飛行家として国内外で展示飛行を行うなど、興味は尽きません。 

 

玉井藤一郎(左・後席)と野島銀蔵(右・前席)(展示より)

今後、機会を見て玉井兄弟と野島銀蔵、情報を挙げていきたいと考えています。

参考文献等

展示物のほか、参考文献は以下の通り

毎日年鑑 大正11年 大阪毎日新聞社

Wikipedhia閲覧(2025.04.24閲覧)

・日本飛行学校

・奈良原三次

ライト兄弟

・玉井兄弟

 

 

 

*1:四日市の展示では「1916年11月04日、玉井式3号機で500mの飛行に成功」となっていましたが、平木國夫「伊勢志摩のイカロスたち」で10月5日、玉井式2号機となっているので、そちらを優先しました。