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飯高諸高 ~松阪が生んだ天平時代の生涯現役女性~

飯高諸高(いいたかのもろたか)は、伊勢国飯高郡(現・松阪市)出身で、奈良時代天皇家に仕えた女官です。

天皇の身の回りの世話をする采女として出仕しましたが、数え80歳まで長生きし、従三位という采女出身者では異例の出世をした人物です。

飯高笠目(飯高諸高)イメージ


続日本紀の記録

飯高諸高が生きた時代の歴史書続日本紀(しょくにほんぎ)」には、宝亀8(777)年5月に飯高諸高が80歳で亡くなったことと、彼女の大まかな事績が書かれています。

宝亀8年(777)5月

○戊寅。典侍従三位飯高宿禰諸高薨。伊勢国飯高郡人也。性甚廉謹。志慕貞潔。葬奈保山 天皇(元正)御世。直内教坊。遂補本郡采女。飯高氏貢采女者。自此始矣。歴仕四代。終始無失。薨時年八十。(続日本紀

飯高諸高は、元正天皇(在位 715~724年)の時代、伊勢国飯高郡から出仕して、内教坊(ないきょうぼう)という施設で働くようになりました。

内教坊というのは踊りや音楽を女性に教える施設で、若いころは学ぶ側でいたかもしれませんが、その後の出世を考えると、教師としても指導にあたったのでしょう。

四代の天皇に仕えて大きな失敗をすることがなかったようです。

亡くなる777年まで官位があがっていき、数え80歳を迎えた正月には光仁天皇から祝いの品を賜っています。

宝亀8(777)年正月

○甲戌。従三位飯高宿禰諸高。年登八十。勅賜絁[糸へんに施のつくり]八十疋。絲八十絢。調布八十端。庸布八十段。(続日本紀

元正天皇の時代に出仕し、西暦777年で亡くなるまでは、元正天皇聖武天皇孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇光仁天皇が位についています。

一度退位した孝謙天皇が再び即位(重祚)した称徳天皇をカウントから除けば、5人の天皇がいますが、藤原仲麻呂の乱で廃位された淳仁天皇の時代には、孝謙上皇のもとにいたとみられています。

 

飯高諸高のもとの名前「飯高笠目」

飯高諸高の名前が最初に歴史書続日本紀)に現れるのは742年のこと。

この時の名前は「笠目(かさめ)」でした。

天平14(742)年4月

夏四月甲申。伊勢国飯高郡采女正八位下飯高君笠目之親族県造等。皆賜飯高君姓。賜外従七位下日下部直益人伊豆国造伊豆直姓。(続日本紀

その後も複数回、「笠目」の名で現れます。

天平宝字5(761)年6月

○己卯。賜正四位下文室真人大市。従五位上国中連公麻呂。従五位下長野連公足。爵人一級。従三位粟田女王正四位上小長谷女王。並進一階。従四位下紀女王授従三位正五位下粟田朝臣深見従四位下正五位下飯高公笠目。蔵毘(※田へんに比)登於須美。従五位上熊野直廣濱(※眉浜)。多氣宿禰弟女。多可連浄日。並進一階。外従五位上錦部連河内。外従五位下忍海連致。尾張宿禰若刀自。並従五位下従七位上大鹿臣子虫外従五位下。以供奉皇太后周忌御斎也。(続日本紀

しかし、761年6月を最後に「笠目」の名は続日本紀から見られなくなり、770年10月に、笠目と同じ官位の「飯高諸高」が登場します。

宝亀元(770)10月

○癸丑。授正四位上大野朝臣仲千従三位正五位上飯高宿禰諸高従四位下従五位下巨勢朝臣巨勢野。百済王明信。並正五位下従五位下巨勢朝臣魚女従五位上。外従五位下賀陽朝臣小玉女。桑原公嶋主。武蔵宿禰家刀自。正七位下縣犬養宿禰道女。無位和氣公廣虫。並従五位下正八位上神服連毛人女。正七位下金刺舍人若嶋並外従五位下。(続日本紀

「飯高笠目」は761年から770年の間に「飯高諸高」に改名したと考えられています。

本居宣長古事記伝でこの説を述べています。

続記に、天平十三年四月甲申、伊勢国飯高郡采女正八位下飯高君笠目之親族、縣造等、皆賜飯高君姓。また神護景雲三年二月辛酉、伊勢国飯高郡人、飯高公家継等三人、賜姓宿禰。また宝亀六年四月戊辰、飯高公若舎人(わかとね)等十一人、賜姓宿禰。また同八年五月戊寅、典侍従三位飯高宿禰諸高薨、伊勢国飯高郡人也、性甚廉勤、志慕貞潔、葬奈保山、天皇御世、直内教坊、遂補本郡采女、飯高氏貢采女者、自此始矣、歴仕四代、始終無失、薨時年八十。とあり。此人は、郎(白・ヒの辺に卩)上に引る采女笠目なり。後に名を諸高と更(かへ)たるなるべし。宝亀元年のところにも、諸高とあり。さて笠目の目の字を、廿二の廿三葉には、日に誤り。廿三の十四葉には、因に誤れるを、古本にはみな目とあり。(古事記伝

飯高宿禰諸高(イメージ)

地元・松阪市の伝承 ~唐の薬で故郷の人々の命を救う~

続日本紀には記されていませんが、地元飯高郡(現・松阪市)には、唐(当時の中国)から医薬の術を故郷に伝え、人々の命を救ったという伝承があります。

その伝承について、明治26年刊行「三重県徳行録」は次のように記します。

飯高諸高唐土の薬法を研究せし話

諸高は飯高郡神戸郷の人なり。生来慈愛に深くして人を救助せし事少なからず。曾(かつ)て其の土地医に乏しく衆庶非業に死する者多きことを嘆き、奮然と意を決して京に上り医術を学べり。時に天平七年乙亥吉備真備唐より帰朝せり。真備は養老元年入唐し彼の国に於て十九年間辛苦を尽くし種々の事を伝はり、殊に名医に就きて百ヶ條の薬方を授かり来りしときゝ、諸高大に悦びて急ぎ吉備の許を訪ひ年来の志望を陳べて其の方法を受け漸くにして業を卒へ伊勢に復りしが、熟々思へらく異邦の薬法を以て日本人の疾病に用ゐる事之を軽忽になすべからずと。即ち実地に就きて研究すること多年にして、遂に其の用ゐるべき者と用ゐべからず者とを按じ之を衆人に施せしに、その妙術真に百発百中なりければ、遠近其の術を称し来たりて治を乞ふ者日に計るべからず。老後弥々名医の聞へ高かりければ遂に天朝に召され、聖武孝謙淳仁光仁の四帝に奉仕し従三位に昇り宝亀八年丁巳八月八十歳にて薨ぜられぬ。諸高衆人を救はむとの至誠よりして遠く京に上り、多年苦学するも猶足れりとせず。親しく真備に就きて唐法を伝習し尚実地に就き深く研究を積みて竟(つい)に名医となりしは、只是れ一片慈愛心の然らしむる所にして其の至誠実に感ずべきなり。

(※原文の一部の「、」は「。」に直し、旧字体常用漢字に直した。)

  • 飯高諸高は飯高郡神戸郷の人でしたが、その地は医療が貧弱で、多くの人が病に倒れ死んでいきました。
  • これを嘆いた飯高諸高は意を決して都に上り、医療を学びました。
  • 遣唐使として唐から医薬の術を持ち帰った吉備真備の話を聞くと吉備真備のもとを訪れ、医薬の術を伝授されます。
  • そして最新の医薬を故郷に持ち帰りますが、環境の違う中国の医薬がそのまま日本の人たちに効くかどうか、ひょっとしたら逆効果じゃないかとも考え、実地でも医薬の研究を繰り返します。
  • そして地元の人々にも医薬を施し、名医のうわさが広まって、やがて朝廷に召し出されて天皇四代に仕えました。

以上、地元伝承の内容ですが、続日本紀の記述と異なり、もともと医学生として上京し、地元に帰って名医となったところ、朝廷にスカウトされた、という物語になっています

三重県徳行録」は采女として朝廷に出仕したという説も否定します。

「飯高笠目」と「飯高諸高」が同一人であるという説を採らなければ、「続日本紀」ともつじつまが合います。

或書に飯高宿禰諸高は頗る美婦にして其の初め飯高采女なりしが漸次昇りて典侍従三位たり。蓋し代々飯高より采女を奉ると此の人より起こるといへるは大なる誤なるべし。

いやいや、都の人はそういうけれど、地元ではこう伝わっているので、こっちが真実だよ、というホームの強さを感じます。

 

飯高氏の居館はどこ?

飯高諸高がいた「飯高郡」。

平成の市町村大合併の前、飯高町という自治体が当時の松阪市の西・山間部にありましたが、飯高諸高の時代の「飯高郡」は現代の松阪市とほぼ同じ広さでした。

前述の「三重県徳行録」では飯高諸高を飯高郡神戸郷の人としています。

昭和初期まで松阪の南東に神戸村という自治体がありました。

現在の地理でいうと東松阪駅や徳和駅の周辺。松阪市中心市街南東にあたります。

神戸神社(松阪市垣鼻町)

また、三重県サイト内「三重のおはなし」、飯高諸高の項では「坂内川のほとり英太(あがた)飯高郡司の立派な館があった」としています。

今も松阪市を流れる坂内川(さかないがわ)北岸に阿形町という町があります。

松阪市阿形町周辺の遺跡発掘調査報告書では、

中央で活躍し文献にその名を遺す、「飯高氏」の本拠地が現在の阿形町付近であるとする説もあるが、現在までのところ裏付ける資料は見つかっていない。

としながら、寺社に残る文書から、阿形町周辺に飯高氏の勢力が及んでいたことは推定できるとしています。

 

むすび

飯高諸高は、今の松阪市街地の近辺を本拠とする飯高氏の館で生まれ育ち、奈良の都に宮仕えに出ました。

正史では若いころから音楽や舞踏を教える内教坊で実績を重ね、官位も順調に昇進していきました。

761 年から770年まで記録が途絶えます。この間に笠目→諸高に改名したとも考えられ、これまでの功績に「諸高」という名を賜って故郷に戻り、飯高郡に医薬を持ち帰るという地元伝承を残したのかもしれません。

その後、再び史書に登場したのち、80歳の長寿を全うした飯高諸高。

詳細な伝は残っていませんが、どのような人生であったのか、興味の尽きないところではあります。

 

参考文献

国史大系 第2巻 続日本紀 経済雑誌社 (1897)

古事記伝第3 向山武男 校 日本名著刊行会(1930)

三重県徳行録 第2編 杉田棄三郎 編 郁文堂(1893)

サイト:三重県サイト内・三重のおはなし

松阪市◆唐の薬法を飯高郡へ(2025.1.30閲覧)

サイト:三重県サイト内・三重県埋蔵文化報告99-2

ヒタキ廃寺・打田遺跡・阿形遺跡ほか

https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/Miebunka/media/00834501/00834536.pdf (同上)